NHK出版編集長を懲戒免職 校正業務の架空発注などで  
msn産経ニュース 2014.3.6
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140306/crm14030614110015-n1.htm
 NHK子会社のNHK出版は6日、架空の校正業務の発注やカラ出張などで計約1350万円をだまし取ったとして、放送・学芸図書編集部の河野逸人編集長(52)を同日付で懲戒免職にしたと発表した。  NHKの子会社をめぐっては、5日にも別会社で不適切な経理処理が発覚。籾井勝人NHK会長は6日の定例記者会見で、NHK出版への調査を行うとともに、会長直属の調査委員会で関連団体も含めた経理の適正化に取り組む方針を示した。
  NHK出版によると、河野編集長は2003年1月から13年12月にかけて、大河ドラマなどの編集で架空の校正業務を発注したり、不必要な校正を親族に行わせたりして、計約900万円を同社に支払わせた。また、私的な飲食費やカラ出張の経費の請求により、約450万円を受け取った。
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以下は、かつて、安倍晋三氏によるNHKへの介入が取りざたされた時期、
そして上記編集長の汚職が開始された時期に発生した問題である。
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中坊氏の手柄にするために
           歴史的事実を歪曲してもいいのか

 ~「加害者に感謝する被害者」なる恐るべきプロパガンダに先鞭をつけたNHK出版~
フリーライター:能瀬英太郎 2004年記
政界に野心あり過ぎの森永と安部政権
 岡山市の南部にある児島湖は、諫早湾締切堤防工事の未来像として格好のモデルである。このまま締切り工事を続行すれば、現在の児島湖は未来の諫早湾の姿である。そのうち湖沼の水質汚染度の上位にランクされ、児島湖と首位を競うことになるであろう。

 児島湖の海底には十メートルあまりの汚泥が堆積して、その除去工事に莫大な費用をつぎこんでいる。しかし除去するあとから汚泥は堆積してくるので、終りはない。淡水化した水を農業用水に使うという当初の目的は、今では汚染が激しく野菜の栽培に使用するには不適当と、農家は敬遠しているという。

 淡水化以前は多彩な魚介類が生息していた児島湾は、現在では汚染されて捕獲される魚類を地元の人は口にはしない。

 そんな児島湖で捕獲されたアメリカ・ザリガニが、東京のある高級レストランで料理として出されている様子をNHKテレビが放映した。岡山支局のアナウンサーがおいしそうに食べている画面をみて、私は驚いた。いまから十数年前のことだが、児島湖では汚染によって骨が曲がったり、体に潰瘍ができたフナがたくさん発見され問題になっていた。

 児島湖には倉敷川、加茂川、笹が瀬川が流れこんでいる。その中でも笹が瀬川の米倉港は、冬になるとへらブナ釣りのポイントとして有名だということだ。釣り上げたフナは「琵琶湖産」になって、関西方面へ出荷されるという。

 「大寒」になると毎年必ずNHK岡山放送局は、米倉港でフナを釣る人を放映した。カメラマンは「大寒の風物詩」として写し、アナウンサーは情緒的な解説をいれる。釣人の回りは流れついた発砲スチロールで埋まっていようと、水が汚染されていようと、切り取られた画面とは無関係なのである。

 もしNHKが報道機関なら、汚れた児島湖で捕れたザリガニを食用にしていることを問題にすべきだと思う。寒ブナをつる人を風物詩として写すより、汚染された川から釣り上げられたフナが「琵琶湖産」に化けていることを訴えるべきだ。

 私がNHK岡山放送局へ電話してそのように抗議をすると、翌年からは「寒ブナ釣り」の画面は写さなくなった。それだけでお終いで、汚染のことを問題にするわけではなかった。まことにNHK的問題処理のしかたであると腹がたった。

 これらの出来事を思い出したのは、先日私とNHKとの間であった「やりとり」と関係がある。

 今では「中坊ブーム」も下火になったが、二三年前までは彼の人気は大したものだった。テレビ出演にあるいは新聞の見出しに、出版される本の広告にと彼の名前を聞かぬ日はないくらいだった。彼が「自分が変わる転機になった」として、いつも取り上げるのが「森永ヒ素ミルク中毒事件」とのかかわりである。

 被害者救済機関として「財団法人ひかり協会」が誕生したのが約三十年前で、それ以後森永ヒ素ミルク中毒事件に関する報道はほとんどされなくなっていた。これで「一件落着」とばかり、マスコミの関心はこの事件から離れていった。それが中坊氏が有名になると同時に、彼の口を通してこの事件のことが語られるようになった。ひかり協会の設立当時、被害者たちは損害賠償を求めて民事裁判を大阪、岡山、高松で起こして、彼はその弁護団長だった。

 私が『野戦の指揮官・中坊公平』を読むことになったのは、古本屋の百円均一コーナーで見付けたからだ。どのようなことが書かれているのか、ちょっと読んでみるのには手頃な値段だと思って買った。他のところはともかくとして、森永ヒ素ミルク中毒事件についての部分をだけを読んだ。それは「第二章中坊公平の遅すぎた青春」の中に収められていた。 第二章は六十六から百四ページまでで約四十ページを費やされいるが、読んでいて驚いたのは間違いの多いことだった。それも基本的な事実について、資料も調べずに書いているのではないかと思うほどだった。

 著者は、NHK社会情報番組部チーフ・プロデューサーという立派な肩書きをもった、今井彰氏だ。「あとがき」の最後には「そしてこの最初の本の出版後、中坊氏に関するさまざまな書籍が出た。(略)人間・中坊公平を描いた本物の一冊だと信じている」と自慢している。私が買ったのは「NHKライブラリー」という文庫(二〇〇一年一月二十五日発行)で、「本書は当社単行本NHKスペシャル セレクション『野戦の指揮官・中坊公平』(一九九七年十一月三十日発行)をNHKライブラリーに収載したのものです。」ということわりがきがあった。もとの本も読んでみたが内容は勿論同じだった。

 この本を読んで事実と違うと私が思った箇所を次に列挙してみる。

  六八ページ「MF缶と呼ばれる人工粉乳に、ヒ素が含まれていたことが発覚した」

  六九ページ「死者には一律五十万円、その他は症状に応じての賠償も行われていた。」

  六九ページ「この調査は『十四年目の訪問』として、一冊にまとめられた。また、この調査結果を知った医師らの働きで、学会でも報告され、マスコミの注目を集めることになる。」

  六九ページ「依頼してきたのは、昭和四十四年から被害者救済にあたっていた青年法律家協会に所属する弁護士だった。」

  八一ページ「国の責任は、厚生省がそれまで使用禁止にされていた第二燐酸ソーダという化学合成品を、いったん使用可能にしたこと。」 
  八二ページ「そして中坊は、法廷戦術と平行して、法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である。不買運動が効を奏せば、企業にとって致命的になる。まして、問題が問題である。社会の同情は原告に傾いていた。不買運動の効果は大きい。」

  九六ページ「中坊は何度も厚生省を尋ねた。被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた。」

  九六ページ「中坊は、この三者会談に賭けていた。民事上の損害賠償の除斥期間は二十年、因果関係を立証する時間にも限りがある。なによりも、裁判の中だけで埋め合わせることのできない事態であることが十分すぎるほど中坊にはわかっていた。」

  九八ページ「被害者の成長と事情に合わせて事業を拡大し、充実させている。」

 10 九八ページ「三者会談の結果、永久的な救済施設として、一九七四(昭和四十九年)年、財団法人ひかり協会が設立された。」

 上記の十項目が事実とは違っている。 

2. NHK出版への申し入れ

 私はニ〇〇三年 (※1)七月二十二日著者宛てに出版元へファックスを送り訂正を求めた。これに対して翌二十三日(株)日本放送出版協会編集部第二図書出版部部長長岡信孝氏から次のようなファックスが届いた。要点だけ記す。
「さて、このたびは弊社から出版されましたNHKライブラリー『野戦の指揮官・中坊公平』(今井彰・首藤圭子共著、二〇〇一年一月二五日発行)の記載中の内容につきまして、一部事実誤認の箇所がある旨を7/22(火)付けのFAXにて拝見しました。内容に関することなので、著者、今井・首藤両氏がご指摘の箇所について至急取り調べのうえ、文書にてご報告させていただきます。なにとぞ御了承ください。」

 私は前記1から9までを三回にわけて指摘した。というのは読むたびにこれはおかしいと思い、七月二八日と八月四日に追加として送った。

 それでは私が事実とは違うと思う根拠を順番に述べていきたい。

 1の「人工粉乳」というものはない。人工の牛乳で製造すればそう言えるが、まだ聞いたことはない。事件発生からこれまで使用されてきたのは「粉乳」「粉ミルク」あるいは「ドライミルク」などの名称である。粉乳、粉ミルク、ドライミルクは意味は同じで水分を蒸発させて作ったものだ。それに対して「練乳」というのがあり、これらは製法上の分類である。

 粉乳のなかには「脱脂粉乳」、「全脂粉乳」、「調整粉乳」などがあり脂肪のある無し、または栄養素の添加などでそれらの分類がある。「人工粉乳」の意味を本文では「いわゆる粉ミルク、赤ん坊に飲ませるものだ。」と述べている。それならなぜ今まで使用されてきた名称を使わず「人工粉乳」なとどいう奇妙で意味不明な造語を使用するのか。

 2は「死者には二十五万円、その他は一律一万円」が正確な補償金額であり、このような基本的な事実を資料によらないで述べる意図がわからない。この金額は一九五五年十月二十一日に森永の要請で厚生省が有識者に依頼して結成された「五人委員会」が作成した「森永粉乳中毒事件の補償等に関する意見書」によるものだ。この委員会はこの後に発生する公害事件の解決に活用される「第三者委員会」の悪しき原形となる。公正な第三者のような顔をした、いわゆる有識者が公害発生企業を弁護する仕組みが森永ヒ素ミルク中毒事件で最初に登場することになった。

 3の「十四年目の訪問」についての記述は、片面的である。大阪の養護学校教諭が調査した結果が公衆衛生学会で発表され、それだけで新聞発表されセンセーションを巻き起こしたように書かれている。しかし、その裏付けとして岡山の被害者が社会から無視されながらも地道な活動で、自主検診を重ねそのデータの蓄積があったことを抜かしている。「十四年目の訪問」はいわば聞き書きであり、臨床検診のデータという裏付けがあって初めて有効性をもつ。新聞発表される前日に、岡山の守る会事務局長岡崎哲夫氏と面接して記者はそのデータを見ている。この自主検診での証明があったから発表することができ、両者は表裏一体の関係にあるのだ。

 4は「昭和四十四年から被害者救済……」に問題がある。同年十月十八日に「十四年目の訪問」が発表され、その後被害者を支援する「大阪府森永ミルク中毒対策会議」が結成されたのが昭和四十六年十二月十三日となっている。この中のメンバーに青年法律家協会も入っているのだから、どうみても四十四年からすでに被害者救済をしていたとは眉唾ものだ。

 5は「第二燐酸ソーダという化学合成品を……」というのは間違いである。「第二燐酸ソーダ」のみ使用が緩和されたわけではない。「などの化学合成品」と書かないと、正確ではない。多くの化学合成品のなかの一つに、この薬品も含まれていたのだ。

 6についてはデタラメもいいとこである。この著者は不買運動をすることになった状況を調べもせずに書いている。「十四年目の訪問」を契機として、被害者の組織である森永ミルク中毒のこどもを守る会(以下、守る会)に参加する会員が急速に増加した。守る会は組織としては不買運動に踏み切らないが支援者がするのは「ご勝手に」という方針だった。私が参加していた森永告発は、設立時から不買運動の拡大を主要な運動方針にしていた。各地の大学生協などにも、不買運動を呼び掛けていた。私たちは岡山の繁華街において、毎週不買運動を市民に訴えるためにビラ撒きをしていた。その他不買ステッカー、シールなどを作製して販売していた。

 昭和四十五年十二月を第一回として守る会と森永との間において、本部交渉が始まった。主な議題は被害者の救済についてであった。守る会は企業責任を認めた上での救済を要求したが、森永はそれを否認して救済のお手伝いという姿勢に終始した。交渉は第一五回目で決裂した。

 昭和四十七年十二月三日森永社長が出席することになっていた第一五回本部交渉に、森永側は約束を破って社長が欠席し、一方的に交渉を打ち切って退席した。そこで守る会は急遽第二回全国集会に切り替えて、民事訴訟提訴と森永製品の不買運動を決議した。

 ここで初めて守る会は組織として不買運動に取り組んだのである。それまでなぜ不買運動に慎重だったかといえば、事件当時に交渉の道具として不買運動を提唱して失敗した経験があるからだ。だが、守る会が国民に不買運動を呼び掛けた時期には、すでに多くの大学生や大学生協は実行していた。それを知ろうと思えば守る会の当時の機関紙「ひかり」を見ればいい。不買運動に参加を表明した組織の名前が掲載されている。

 不買運動と個人のかかわりについては、それは個々人の良心の問題でありはっきり把握はできない。無名の人が誰にも告げずに森永製品不買の行動をとり、その集積が森永の経営に反映したといえる。これら多くの人の無言の行動を「駆使」することなど不可能である。それに中坊氏が弁護団に加わったのは、翌年の一月とご本人が述べている(『中坊公平・私の事件簿』九三ページ)のだから、その時すでに不買運動は始まっていた。
    ※1)今回不正が発覚した河野編集長は、まさに2003年1月から2013年12月にかけて
                カネを騙し取っていた。

3. ウソにウソを重ねる


 7も6に劣らないウソであり、それもより悪質なものである。

 ここに書かれている当時の状況は、交渉が決裂し守る会が不買運動と民事訴訟に踏み切った時期のことである。守る会が大阪を第一波として提訴したのは昭和四十八年四月十日である。八月二十四日には第二波として岡山で、十一月二十四日には高松で第三波として提訴した。

 不買運動と民事訴訟に踏み切って以来、森永と守る会の接触は無くなっていたが、五月二十二日に岡崎事務局長に森永社員が提案をもって接触してきた。この案に対して守る会は六月八日に検討の価値がないとして拒否の回答をした。七月になって当時の山口敏夫厚生政務次官から、話し合いのテーブルにつかないかという非公式の打診が守る会の幹部にたいしてなされた。その後、厚生大臣の意向をうけた山口氏は、森永側の約束もとりつけた上で話し合いのテーブルにつくよう守る会へ要請してきた。

 『森永砒素ミルク闘争二十年史』によれば守る会事務局長岡崎哲夫氏は「森永の大野社長からも守る会に対し、貴会の恒久対策案を包括的に認めて誠意をつくさせていただくことを厚生省にもご確約申し上げましたので、何とぞ宜しくご配慮を賜るようお願い申し上げます。との書簡が届けられた」と書いている。これは九月二十六日のことであった。

 九月三十日の守る会第三十四回全国理事会で検討した結果、守る会・厚生省・森永の三者会談に臨むことを正式に決定したのである。だから「被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出す」必要はなかったのである。むしろ国と森永の方が接触を希望し、守る会がそれほど乗り気ではなかったといえる。だから著者はまったく正反対のことを書いている。

 さらに『金ではなく鉄として』中坊公平著、岩波書店二〇〇二年二月二十五日発行によれば

 七三年(昭和四十八年)も押し詰まった十二月二十三日になってよもやの事態が起きた。

「森永ミルク中毒のこどもを守る会」、森永乳業、厚生省の代表によるこの日の第五回三者会談で、「確認書」が作られ、即日、守る会理事長、森永乳業社長、厚生大臣が調印したというのだ。そして守る会執行部は、提訴取下げの方針を原告団に通告してきた。

 もとより、この訴訟の実質的な原告は守る会であり、原告団のメンバーは多くの被害者の代表として立てられていたのだが、それにしても、前面で行動してきた彼らにも、私たち弁護団にとっても、寝耳に水の急展開だった。(二一〇ページ)

 とあり、いろいろな資料を比較検討すると、どれも『野戦の指揮官・中坊公平』に書かれていることとは反対のことばかりである。

 8は7の内容を受けている。7には三者会談とは書いてないが、次の行にある「中坊は、この三者会談に賭けていた」の「この」は7に書いた事柄、即ち三者会談をさしていることは明白である。だから、7がウソであるのだから、8もあり得ないことは納得してもらえると思う。民事裁判が進行中でありながら、それを否定するかのような三者会談に「賭ける」とは弁護団を裏切ることである。常識的に考えても、弁護団長がやるはずはないのである。

 また『森永ミルク中毒事件と裁判』森永ミルク中毒被害者弁護団編、ミネルバ書房刊(昭和五〇年一二月二〇日発行)の中にある「座談会ー訴訟の終結と被害者の今後の救済をめぐってー」に出席していた守る会の幹部の発言でも、国と森永がしきりに会談をもとめてきたことを証言している。この座談会には中坊氏も出席して、三者会談について発言しているので、ちょっと長くなるが引用する。


  「中坊 多くの弁護士の方から三者会談をめぐって弁護団と守る会との緊密な関係が欠けていたという指摘がありましたが、かろうじて公式のものではなくても非公式であっても、例えば私自身が全国理事会に出席する等、何らかの形で弁護団とはそれなりの意思連絡はとっていたと思います。私たちも三者会談のあり方について、当時から意見をいい、守る会の御意向を承わっていたわけです。

 しかしそこで何らかの誤解が生じた、守る会の一部の方からは弁護団は一つの主義主張のために裁判をやっているのであって、救済のためではないという疑いを抱かれたんですね。それが緊密さを保てない一つの根底にあったようです。しかし私は弁護団の責任者としてこの際はっきり申し上げたいと思うんですが、私たちはすべて弁護団会議で報告検討して行動していたわけですが、私たちとして決してそんなことを未だかって考えたことはないわけであり、三者会談に対しては批判的な意見を持ちつつも、それを原告や守る会の底辺の人たちに直接訴えることはやはり避けるべきである、絶対にしてはならないという一線を守って守る会のそれなりの組織の中で決定されたことに対しては、私たちとして従うべきであるということは、終始一貫して守ってきた。(以下略)」

 ここで本人が述べているように「三者会談に対して批判的な意見を持つ」人が何故それに「賭け」たり「水面下で動き続け」たりするのか、著者の考えがわからない。それにしても三者会談について、同一人物のとった行動が著書によっては正反対に分かれて記述されているのが不思議である。
 9については、何をもって「事業を拡大し、充実させている」といっているのか不明である。予算はひかり協会発足当時と現在を比較すると約三倍に拡大しているが、それが内容の充実とは結び付いていない。救済の憲法ともいえる恒久対策案からは後退に次ぐ後退であり、現状を検討せずに無責任なことを書いているとしか言いようがない。

 10については、直接NHK出版には訂正を申し入れはしなかった。しかし正確な表現ではない。この文章はひかり協会について述べているが、協会は財団法人の組織であり「救済施設」ではない。施設という場合普通は建築物などの設備などを意味する。ひかり協会には恒久対策案で建設するとされた、被害者の収容施設も病院もない。「救済施設」と呼べるものはなにもないのに、この名前はなにを意味しているのか分からない。

 私の申し入れにたいして「至急取り調べのうえ」と言いながら、回答が来たのは約二週間後の八月七日のことだった。

 「お問い合わせの件、大変遅くなりましたこと、誠に申し訳ございません。 本書は番組『NHKスペシャル 史上最大の不良債権回収』、そして『ETV特集 シリーズ弁護士・中坊公平』をベースに、新たな取材を加えて記したものです。執筆にあたりましては、中坊公平氏自身に取材し、証言をいただき、さらに内容に関しても目を通していただきました。また、併行して関係各位に取材をし、助言や資料のご提供をいただきました。

 今回、能瀬様から頂いた貴重なアドバイスの内容につきまして、そのうち「死者には一律五〇万円、その他は症状に応じての賠償も行われてきた」の記述については、ご指摘通り、「死者には二五万円、その他の被害者は一律一万円となっている」が正しい内容でした。ご指摘、まことにありがとうございました。次回、重版の際に訂正させて頂きます。その他の点につきましては、内容をいま一度精査のうえ、明らかな事実誤認がある場合には訂正いたします所存でございます。(以下略)」

 私の指摘にたいして一か所の誤りを認めただけで、その後に返事がないということは、それ以外は訂正するつもりは無いのであろう。しかも、「次回重版の際には…」と但し書きをつけているとは、どういうことだろうか。
  私は、このような書籍の重版など望まないが、要するに誤った事実を大量に垂れ流し、その修正は「事実上出来ませんよ」と慇懃無礼に述べているだけにしか思えない。
 それにしても、二度のファックスはいずれも第二出版部長である長岡信孝氏からのものであった。私は著者である今井彰・首藤圭子氏宛てに出しているのに、両氏からは何の返答もないのはどういうことであろうか。私の手紙に異論があれば、堂々と反論すればいいのに、黙殺しているのは失礼な対応である。権威者、権力者には卑屈になって事実でも歪曲するが、無名のものにはその裏返しの態度を平気でとるとしか思えない。    

 手紙の中で私は資料として書名を挙げて、それらを見れば正確な事実がわかると書いた。また三者会談について中坊氏がもし守る会の要請で「水面下」で行動していたなら、故岡崎哲夫氏が遺した資料を調査すればすぐ分かると書いた。しかし夫人の岡崎幸子さんに尋ねてみるとNHK出版からは何の問い合わせもないとのことであった。

 それらのことから判断すると、事実が判明すると『野戦の指揮官・中坊公平』という題名は不適当になる。著者が描くこの本の構図は、不買運動も三者会談も中坊氏が指揮したことにしなくてはならないのだ。

4. NHK本の悪い影響

 著者は中坊氏に関する最初の本を出版したと自慢げだが、それより不正確な記述が後々まで影響していることを恥じるべきである。中坊氏の偉大な人格に「傾斜」するのもいいが、それによってジャーナリストとしての目まで曇ってしまってはなさけない。事実まで歪曲しても平気なのだから、もともとこの著者にそんな目を要求するほうが無理かもしれない。 

  その後に出版された中坊氏に関する他の本を読んでみると、私がこの本であげたのと同じ箇所に間違いが多いのに気がつく。「中坊公平著」となっていても、聞き書きを編集者が文章化したのがほとんどのようだ。なにしろ約五年間に三十冊もの「中坊本」が出ているのだから、本人が書いていては間に合わないだろう。多くの出版社が「中坊ブーム」に乗り遅れまいと、聞き書きをすぐ本にするという、安直な金儲けのやり方を競った。
 森永ヒ素ミルク中毒事件に関しては言えば、二十数年前の中坊氏の経験である。その記憶が絶対に正確で信用に足るかと言えば、中坊氏の卓越した能力をもってしてもそうとは言い切れない。そのいい例が対談にあらわれている。二人の発言をそのまま本にしたと思われる『裁かれるのは誰か』(東洋経済新報社刊 一九九八、一、一発行)にも多くの誤りが見られる。この本については、あとからその箇所を指摘するつもりだ。

 「NHK本」と同じ誤りをおかしているのが『中坊公平・私の事件簿』中坊公平著・集英社新書(二〇〇〇、二、二二第一刷発行)である。

 「そして中坊は、法廷戦術と並行して、法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である」(NHK出版本)

 「中坊は何度も厚生省を尋ねた。被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた」(NHK出版本)

 「私は裁判と並行して不買(売)運動を進めたりしながら、国(厚生省)森永、被害者の三者会談を重ねるという策をとりました」(集英新書) 
 集英社新書は中坊公平著となっているが、読んでみれば聞き書きであることはすぐ分かる。文章化の時にNHK本を参考にしたものと思われる。要するに、NHK本のとばっちりを受けた格好となっており、当時の「中坊ブーム」の熱狂に巻き込まれた感がある。
 その他にも中坊氏に弁護団長を依頼してきた青年法律家協会員が
 「七三年一月、その伊多波さんが、私のところへ来られたのです。四年間自分たちでやって来た……」(五三ページ)は第一章のあやまりの4で指摘したことであり、年号を西暦にしただけである。

 その他「同年(六九年=能瀬注)一〇月一九日の朝日新聞で報じられたことが契機となり、「森永ミルク中毒の子供を守る会」が結成され、森永乳業と交渉が重ねられるようになった。」(五二ページ)も誤りである。 守る会が結成されたのは事件の翌年五六年(昭和三一年六月)であり、その後も解散せず少数の会員ながら活動を継続してきた。その基盤があったから「十四年目の訪問」報道の際に、自主検診データが裏付けになったことは既に述べたとおりである。いってみれば、守る会が岡山だけででも活動をしていなかったら、「十四年目の訪問」は生れなかったといえる。 さらに「結局、私は、三者会談で決まったいくつかの対策の内容や被害の因果関係を、口頭弁論において国や森永に一つ一つ認めさせ、裁判所の公式記録にとどめました。そして、そのうえで提訴を取り下げました。同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました」(五八ページ)も正確ではない。

 裁判の主体は守る会であり、中坊氏は弁護士として依頼をうけてやっているのである。提訴も取下げも決定するのは守る会であり、弁護士ではない。森永製品の不買運動を呼び掛けたのは、被害者の親でつくる守る会である。昭和四九年五月二四日「不買運動終結声明」を出して収束させたのも守る会である。このように本来「守る会」と書くべきところを、「私」あるいは「中坊」と書いているからすべて中坊氏の行為と誤解されることになる。著者あるいは聞き書きをした人は、有名になった頃の中坊氏のイメージでもって勝手にそう理解したのかも知れない。

 当時の中坊氏でもって、過去の彼を都合よく推測している。ほとんどの著書の中で中坊氏は、森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護をしたことで生き方が変わったと書いている。そのことを忘れて「中坊=指揮官」と書くことで、守る会の主体性を無視して、中坊氏に引き回された印象をあたえる。それまで中坊氏は大衆運動とは無関係で、父親に進められて弁護を引受けたと述べている。この本で急に被害者運動の指揮官にでっち上げられた。 そのためそそかっしい評論家には、つぎの新聞記事のような読まれかたにもなり、事実に反することが広がる。これは二〇〇一年一月二一日の朝日新聞読書欄、「ベストセラー快読」に載った記事である。

 「ヒーローは一夜で生れず」との三段見出しで「裁判の目的は被害者救済と企業と国に加害責任を認めさせること。それを勝ち取るために裁判だけでなく不買(売)運動を組織し、さらに国と森永と被害者の三者会談を重ねるという方法をとった。」とまるで中坊氏が対森永闘争の全指揮をとったような読まれかたになっている。

 前にも引用した『金ではなく鉄として』と『中坊公平・私の事件簿』はどちらも「中坊公平著」となっている。しかし三者会談については全く逆のことが書いてある。『金ではなく鉄として』では三者会談が弁護団にとっては「寝耳に水」であったことなのに、『中坊公平・私の事件簿』では中坊氏がそういう「策をとった」ことになってしまっている。

 さらに『中坊公平・私の事件簿』ではすぐ三行あとには「自殺まで考えた」という見出しがある。なんのことかと読んでみると、三者会談や裁判を巡って守る会との間に溝ができ弁護団全員の解任を考えていると、守る会幹部にいわれたとある。それにショックを受けた中坊氏は自殺まで考えたというのである。

 それほど弁護団にたいする不信感があるのに、守る会が中坊氏に指揮を任すわけはないのである。この本の一ページほどのあいだにもこのような矛盾したことが書かれていて、中坊氏の「策」で守る会が動いていたわけではないことが分かる。それでもそのすぐ次ぎのページでは「私は……そして、そのうえで提訴を取り下げました。同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました。」と書くのだから、支離滅裂である。

 どうしてこのような事実に基づかないことが書かれるのかといえば、中坊氏の記憶が正確ではないことによる。文章化するに際して、話された内容を点検して資料と比較してみる作業を怠っているからだと、私は推測する。その責任は著者としての中坊氏と聞き書きをした編集者にあるのは勿論である。このような不良品を読者に紹介するにために、内容を正確に読まずに提灯記事を書いた批評家も責められる。

 なぜ私が中坊氏の記憶が正確ではないかと言えば、次にあげる対談集での彼の発言に誤りが多いからである。この本も彼の発言を検証もしないでそのまま文章化したのであろう。対談だからといって、発言内容が不正確なままでは許されない。

5. 「中坊ブーム」に便乗して

 私は今年の八月一四日に東洋経済新報社編集部へつぎのようなファックスを送った。その全文を次に紹介する。

「 前略 貴社発行の『裁かれるのは誰か』(一九九八、一、一発行)を拝見しました。その中で森永ヒ素ミルク中毒事件に関する中坊氏の発言に多くの事実誤認を発見し、是非事実関係を調査され訂正されることを望み拙文をしたためた次第です。中坊氏の発言とはいえ、間違いは間違いであり、そのまま放置しておかれますれば、以後この著書内容を真実として通用することをおそれます。

 第一は八〇ページの「昭和三〇年八月二五日のことでした。岡山大学法医学教室がその事実を発見する」です。正しくは八月二三日です。

 第二は同ページの「そのときすでに、厚生省の調査によっても、一万二〇〇〇人余りの人がすでに砒素中毒にかかっておって、百二十何名の赤ちゃんが死亡……」は誤りです。その年の一二月九日現在で厚生省が確認している数字は死者が一一三人、患者一一八九一人です。

 第三は八一ページの「そこで砒素中毒の診断基準、治療基準というものをつくる。そして砒素中毒に効くというバル注射などを勧めた」は誤り。ただしくはバルは砒素中毒ということが判明した八月二三日ごろから、岡大医学部の浜本教授が治療法として勧めたのです。

 第四は同ページ「死者で二〇万円ぐらい」は正しくは二五万円です。

 第五は八二ページ「昭和四四年に堺の保健婦さんが自分が管理している、いわゆる精神薄弱児の中に」は「昭和四三年ころ大阪の養護学校教諭が自分の勤務している学校の中に」です。

 第六は「厚生省は名簿は絶対見せない」は誤り、この時は名簿を請求してはいない。名簿はもっていたので、べつのこととかんちがい。

 第七は「三六人の子」は「五〇人」

 第八は一〇〇ページの「ある女性の厚生大臣の自宅へ行った。ところが逆に川本さんと同じように、これも捕まえられるんですわ」は誤り。厚生大臣に面会して直接陳情したが、その後に何等の対策も講じられなかった。 以上の誤りは次の著書で正確な事実が分かる。『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』岡山県(一九五七、一〇、一発行)『森永ミルク中毒事件と裁判』ミネルバ書房(一九七五、一二、二〇)『砒素ミルク1』森永告発(1971、六、一〇)など。            草々」

 この本で中坊氏の対談の相手をしているのは錦織淳氏である。対談上手が相手の場合、文章として書かれたものとは、また別の面白さが引き出されることはよくある。話し放しのようでも意外と事実関係の検証や校正に、時間を掛けていることを「あとがき」で知って驚くこともある。対談と言えども、通常、それくらい発言の正確さを期することに神経を使っているものだ。

 ところが、『裁かれるのは誰か』の場合、中坊氏には残念ながらそのかけらも感じられない。ご自身が弁護団長を務めた裁判での証言くらい、正確に調べて言ってもらいたいものだ。裁判後に出版された『森永ミルク中毒事件と裁判』は弁護団の編集だから、持っていないことはない筈だ。私が指摘した誤りの五、六、七はこの本に養護教諭の証言として掲載されている。それについては次の『中坊公平の闘い』で取り上げるのでここでは省略する。 その他の誤りのうち事実関係を補足して記述すれば、第二の「そのときすでに」の「そのとき」とは八月二四日のことで、森永ミルクの中からヒ素が検出されたと発表された日のことである。混乱をきわめていた状況では、被害者の実数把握は不可能であり、この数字も誤りである。     第三については事件発生の年の一〇月九日、西沢阪大小児科教授を会頭にした委員会「六人委員会」で決定された。発表された「治癒判定基準」」でほとんどの患者が治癒と判定される大雑把な基準であった。これによってほとんどの患者が退院し、治療費は自己負担になった。

 それと同時に発表された「治療指針」には「今回の中毒患者については、患者は夫々適切と思われる治療により殆ど治癒している。然ながらその治療法は極めて多岐で而も各自に理論的根拠によって処理せられたものと解せられるので本委員会において、結論を出すことは、非常に困難である」(『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』二九六ページ)とあり「バル注射……」を勧めることは発表されてない。

 バルについては次のように書かれている。「BALは第二次大戦勃発とともに発泡性の砒素性毒ガスの解毒剤に関する強力な研究が主に英国で進められた結果、この目的に最も有効なものとして発見された化合物である。多量の金属が永く蓄積する慢性毒中毒症の場合における効果は急性中毒の場合にくらべ不顕著である。」(前掲書二四二ページ)

 急性のヒ素中毒にバルを使用したが、それから一か月以上経過して問題はヒ素中毒の後遺症が心配されている時期にバルを勧めるわけはない。

 その他第四は既述のとおりで、第八は対談者の錦織氏が水俣病の川本さんが逮捕されたことを述べ、中坊氏がそれに関連して発言したものだ。
 事件が決着後、岡山県のみで守る会が組織され、細々と活動してきた。この事件は以後マスコミから意図的に無視され、社会に訴える手段を失った。その中で唯一つ、毎年開催される「日本母親大会」が発言の場であった。 昭和三五年の大会は東京で開催され、守る会からは吉房亀子さんら二人が参加して後遺症の存在を訴えた。私は吉房さんの日記を『砒素ミルク1』に掲載させていただいた。その中から八月二三、二四日を一部引用する。

「東京駅に行くと十時過ぎで今から行く所もなく四人は四千何百円も出して泊まることはできないので目黒警察署に一泊保護してもらい、八月二四日の午前五時に警察署を出て等々力町の大野勇(森永社長、能瀬注)さん方に行く。大野夫人に会って一言話し、お茶代わりに森永牛乳を一本ずつ戴いて八時にこの家を出て田町の本社に行くも面接できず正午ごろやっと社長代理に中須さん、池谷さん、松本さんが来て私と浅野さんは久方ぶりに米食をした。(中略)二四日に森永社長は面接してくれないので、私達は高田なほ子先生(参議院議員、能瀬注)の取次にて厚生大臣に直接陳情に行った所すぐ面会して私の話すことをよく聞いてくださいました。」

 この日記は『砒素ミルク1』以外では公表されてはいない。中坊氏はこれを読んで、記憶に残っていたのではないだろうか。それにしても事実を確かめもせずに、よく自分に都合のいいようにくっつけたものである。


6.「被害者は加害企業に感謝している」?…
                   公害被害者の尊厳を踏みにじる凶悪な嘘 
  2014年追記


 『野戦の指揮官・中坊公平』(文庫本)(平成1年1月25日発行)の103ページでは「森永裁判当時の森永乳業社長が亡くなったとき、被害者の親たちは、遺された夫人に社長あての感謝状を送る。」とある。

 しかし、他方、『諸君』(2002年5月号)での菊地孝生との対談157Pでは「ひかり協会が主催して大野社長に感謝する会を開いたんです」とある。


 NHK出版の中坊本では、これが彼の驚くべき個人的主張であるところの 「被害者は今では加害企業に感謝している」を補強する「証拠」のように配置されている。彼は、その後もこの「行事」について、しつこく雑誌で触れている。ところが、同一人物・中坊氏が語る「行事」の内容が、媒体ごとに別物になっているのだ。

 そもそもこのような「行事」がオフィシャルに実施された事実はあるのだろうか?ちなみに、「森永裁判当時の森永乳業社長」の逝去は昭和59年(1984年)だ。不思議なことに、この「公式行事」は、ひかり協会の「10年のあゆみ」「30年のあゆみ」にも記載されていない。「守る会」の公文書にも存在しない。つまりこの「行事」は、少なくとも公文書からは確認されない。

 一体、この信じ難い「被害者合意のもとに公式に行われたとする行事」とはどこに存在するのだろうか?被害者とその遺族が、当時、こんな公式行事の開催を知っていたら、おそらく憤慨した事だろう。
 もちろん、このような言説を流布することで利益を得る者は誰か?は、押して知るべしだ。

 NHK出版は、「加害企業に被害者は感謝している」などという言説流布の先陣をはった事に関して、死亡乳児131人(事件発生後1年以内)、1万2159人の被害者、そして、2013年までに、もがき苦しみながら死亡したであろう認定被害者1170名の御霊とその声なき声に対して、きちんと答える責任があろう。


【了】 

不見識の極みというべき中坊公平氏 週刊金曜日19991001