現実の政党(政治)に理想主義を求めると手痛い裏切りと政治への嫌悪感という長期間にわたって有権者を苦しめるトラウマをもたらすことが多い。

権力の交替可能なシステムをほとんど経験していない日本では、政権交代のサイクルを確立することが優先順位の高い選択肢だろう。

こと腐敗した政党政治では、有権者が、政治を間接的に管理・コントロールできる状況をどうやって形成するか?という「次善の策」を懸命に考える必要がある。そのためには、ある程度、割り切った選択が必要になる。秘密投票の原則もそれを補完する機能がある。

他方で、空想主義に陥りやすいインテリや政治的不満層は、狡猾でこずるい全体主義的イデオロギーに依拠する一部「政党」のプロパガンダ「教宣」に、肝心な時に酔いしれる癖がある。

こういった作風で、政党政治に理想を追い求め、特定政党の理想を語って溜飲を下げている間は、リアルな現実では、権力がほくそ笑み一党支配が続くパターンが多い。

日本で民主国家といいながら半世紀にわたり事実上の一党独裁が継続したことによる弊害とそれを間接的に支えた様々な背景理由を、もっと真剣に考えてみるべきだろう。

「あの時代はあれでそれなりに機能していた」という老人の安易な回顧趣味こそが、今の政治の現状を生み出している元凶だ。

「ウソ」にまみれた “与野党対決“ という「表向きの体制批判の猿芝居」。その本質と背景は一体何であったのか、ということを、これからの世代はもう一度、視点を替えてえぐりだす必要があろう。

もともと、不正と腐敗が横行している政党政治の場で、歯の浮くような理想を語る政治家ほど、危険なデマゴーグだと認識したほうがいい。

現実政治は、現実に存在する利害を主に反映しており理想では動いていない。理想で動いたためしもない。そして理想主義を売り物に安易に政権を獲得すると、揺り戻しが激しくなる。

理想を希求する精神はとても大切であり、だがしかし、市民が自らの持ち場で、長期間にわたって汗を流すことでしか政治に反映させることはできない。

政治は、政党政治だけではない。口先だけの評論、個別政党を美化してそこに頼れ!という掛け声では現実の何ものをも、変えることはできない。(市井の市民の努力の果実を掠め取って、「我が党の成果」なるプロパガンダにすり替え、生業を続ける政党はいくつかあるが)

選挙のときにだけ、政党政治に理想を期待すべきだとする論調・風潮は、例外なく腐敗している諸政党の「しもべ」の位置に市民を位置づけることを強制する場合が多い。

そういう「上から目線の政治・政策論」への巷の本能的反発が、回りまわって投票率の低下となって現れることに、もっと言論人や知識人は思いをはせるべきではないか。

絶対主義は絶対的に腐敗する。

かつていくつもの国で支配権力を握った全体主義(ナチやマルクス主義、ほか)は既存政党政治の腐敗を奇貨として合法的に政権を獲得し、不正なプロパガンダにためらいをもたず情報統制をもって社会全体を統制し次の選択の可能性を封殺した。

一方、確かに政党政治は有権者の諦観や思考停止傾向に比して相対的に腐敗する。

だが民主主義は自由な選択の余地を制度として保障する。

すなわち民主主義を基盤におく政党政治は、腐敗した政党政治を蔓延させるが、次善の策を選択することを全く妨げない。いくらでも「改善・改革」が可能な政体だ。

だが、民主主義は、自由の承認というその特性から、全体主義政党の活動をも許容する。

したがって、バランス感覚を喪失し、次善の策を懸命に考えず極論に走る選択肢を採用した民主主義は、その考えない民意に比例して、合法的に全体主義へ逆行する。

そして、全体主義への移行は不可逆的であり、民主政体への復帰は不可能である。

これは人類が未だに克服できていない「自由と民主主義」のもとでの「考えない」怠惰の発生がもたらすきわめて大きな現実的危機である。