脱原発一本化を拒否した共産党に対する鎌田慧氏の批判の衝撃

http://bylines.news.yahoo.co.jp/amakinaoto/20140129-00032088/

そもそも、かつて共産党が多様な民主主義を尊重したことがあったのか?とか…コミンテルンでのディミトロフ演説の位置づけをどう見るか?とか…、そんなことはこの際どうでもいい。要は、鎌田慧氏が共産党のDNAとも言えるセクト主義をわかりやすく衝いたことに関しての、とても興味深いオピニオン。
  (セクト主義に見えて要所では自民をアシストしている行為は既にバレている→http://takuki.com/dsk/015.htm )
市民運動の新しい層が共産党の本質を再認識し始めたのは大変結構なことだ。

共産党の、百年以上変わらぬ思考回路と作風

共産主義イデオロギーの要点を簡潔にまとめると、「共産主義はすでにマルクス様が法則的に決定しているとおっしゃった人類の最高にして最終的な到達点であり、共産党は、そこへ無知な民衆を導く領導主(自称:前衛)である」と自己規定をし、自己暗示をかけ続けるイデオロギーである。

20世紀後半からは、この自己暗示システムだけがこの党の組織支配原理として残存し、共産主義を実際に実現しようなどと大まじめに考えている構成員はもはや存在しないだろう。だが、これでは党名との整合性が取れないので、党側は、共産主義の定義そのものを原典から変えてしまい「共産党が議会で第一党になる事がまず共産主義への手始め」と規定しているから、「共産主義を目指している」と自称しても矛盾を感じなくさせている。ひたすら「党勢拡大の宣伝活動」をすることが「日本革命の崇高な使命」だと思い込めば、自省能力の成長は抑制され続ける。ただ、理屈的にはどうひっくり返っても、共産主義を口にしている限り最終段階では共産党一党支配(独裁)が登場するはずなのに、それは口にチャックしつつ、その論理構造が引き出す独善性にはしっかり影響を受けている。曰く、「われこそは唯一無二の平和と民主主義の党」「自分たちだけが正しい」...。事実にも反するこんな唯我独尊をクチにするから、幅広い視野をもつ人には?マークがいっぱいつくことになる。

実態は、美辞麗句で糊塗しただけの拝金主義な世俗政党

自らを「人類の理想へ導く前衛党」と “唯物論的、歴史主義的に” 規定することで、この組織は自らを、「人間社会の上位に立つ超越的かつ神格化された存在」にしてしまう。この一神教的世界観こそが、この党が、「支援という旗」を振りかざしながら近寄って行く先の団体へ介入や乗っ取りを画策し、そのためには言論弾圧、査問、政治的抹殺といったありとあらゆる不当な行為にためらいがなくなる思想的基礎をなしている。が、党員たちにはその自覚がほとんど無い。自党の根城を拡大することは理想郷に近づく重要な組織化活動と考えるからだ。実際には、拝金主義に基づく党生活者の利権確保と、それを美しく糊塗するためのプロパガンダを代行する盲従諸団体の生成・育成が目的にすぎない。

問題は、その「ここぞという時の」やり方が、普段から党内で慣れ親しんだ民主集中制の手法で、手段を選ばず偽装潜入とプロパガンダに狂奔し、正面から批判されようものなら徹底的に「反共主義者め!」わめき散らし、噛みつきまわり、誹謗中傷、恫喝、組織動員による威圧、政治謀略など見境のない手段を選ぶことである。乗っ取る際には、対象組織内部の市民的リテラシーに欠如したゴリ押しタイプの人間を橋頭堡に使い、用済みになればお得意の美辞麗句を持ち出し切り捨てるといった事にも躊躇いはない。徹底的な党利党略優先で突進する習性。これで乗り切ってきた「成功体験」が忘れらない。それを下支えするのが「民主集中制」という、民主主義を深く考えた事がある人にとっては笑止かつ幼稚で形式主義的な思考回路。“この統制原理を維持する限り組織は安泰”...これこそが、腐っても「共産党」の看板を降ろせない本当の理由だ。

全体主義イデオロギーを貫く「閉じた循環的な論理構造」

論理的・学術的に誠実たろうとする人々には理解に苦しむ循環理論を振り回す党であるが、一方、当事者はそ知らぬ顔を決め込んで、“資本主義の本格的変革の段階は数百年先“ みたいな発想で合理化するか、或いは、公の場での自党の終局目標についての議論からは逃げ出すという戯画的なものとなる。「共産党」を自称しながら、選挙演説などで「共産主義社会の実現を一刻も早く目指しましょう」の一言さえ聴くことが無いのはそのためだ。(マルクスの労働価値説を世界観の拠り所にし、経営者を階級敵と規定するなら、ブラック企業に限定することなく「生産手段を所有する経営者や農民から工場や土地を奪取する」本来の「カクメイ運動」に果敢に邁進すればいいものを、彼らが介入する対象は、もっぱら、市民運動や、住民運動、温和な労働組合運動ばかりだ。これを「数百年先かもしれない共産主義社会への準備」と思い込むのは勝手だが、「取らぬ狸の皮算用」を口実に、市民運動を引っ掻き回す事なかれ、である。)

国民からの批判に基づいて自己のイデオロギーの根幹を不断に見直すという思考様式は理解できないようだ。修正があるとすれば、いつも、自党の「党勢拡大」「プロパガンダ」の都合からだけである。
(ちなみに、「教宣」なんて言葉は正式な日本語でもないし、この言葉を安易に口にする人はプロパガンダに片足を突っ込始めているとの自戒が必要だ)

そもそも、この思想の基礎をなす唯物弁証法的歴史観には、「開かれた改善サイクル」を可能にする修正回路が埋め込まれていない。(「人類の終局目標である共産主義体制」という看板を修正すれば、そもそも共産党の存在理由がなくなるのではないか、という自己暗示型の循環理論の罠)このような意味で、獲得した党員を精神的にがんじがらめに拘束する強烈な機能を有しているのも事実。いわゆる「官僚の無謬性神話」もたちが悪いが、外部からの批判に耳を貸す必要性を認識できないという点では、カルト宗教的イデオロギーに酷似している。
これは、自己完結型理論がもたらす大きな罠であり、ポパーや、アーレントが明確に指摘した「無限の世征服運動に突き進む全体主義運動」の核心的論理構造である。

それゆえ虜になった人間はカルト宗教団体やマルチ商法の信者よろしく、思考停止のまま、実によく党のために働く。これも党幹部が「共産党」の看板を降ろせない蜜の味の源だ。


マルクス・レーニン主義的思考回路は市民主義的資質とは無縁

末端党員は、組織中枢の腐敗構造を直に見る機会でも無い限り、自党の問題点に気づくチャンスはほとんど無い。機関紙を読まされ続けることで、“「前衛党」の下働きをすることが社会変革への最短の道”  という、市民的資質の欠落した思考方法と特有の独善的(前衛党無謬論 的)思考方法が不断に植えつけられる。

組織内でマスターベーションをしている間は、自由と民主社会の寛容証明書への寄生虫みたいなもの。
だが、この「一枚岩的」民主集中制の統制権力の機能を知り尽くしている国家権力は、最悪の公害事件などに際して住民・市民運動が激発したときには、運動への骨抜き工作代わりに代行利用をはじめる。そのあざといやり口は、深い傷となって半世紀を経てもなお国民の記憶の中に刻みこまれている。それは以下の事例にも端的にあらわれている。


水俣病闘争の現場に立った渡辺京二氏は、石牟礼道子さんの書籍で以下のように看破する。

「日共水俣市委員会は…ビラを織り込んだ。これは、…チッソの責任追及など申し訳にすぎず、彼ら (※日共) の水俣病問題に対する基本的認識が〝水俣病と安賃争議のために水俣はさびれた、これをなんとかしなくてはならぬ″  という、チッソが陰に陽に流し続けた、患者と水俣工場第一労組の労働者を圧殺するためのイデオロギーの完全なとりこになっていることを、白日の下にさらすものであった。…日共の数々の愚行はいまさら問題にするのも沙汰の限りではあるが、この声明は愚行などという生易しいしろものではなく、決死の闘いに立った十八家族への背後からの一刀であり、政治的犯罪の極北を示すものである。」
                       出典:石牟礼道子編「水俣病闘争 わが死民」

容赦ない厳しい憤りに満ちた筆致だ。それほど日本共産党が犯罪的な立ち回りをしたからだ。当時の水俣病患者の情念を共有した人間だけがわかる、腐敗した民主集中制党派への怒りのツブテといえるだろう。


■歴史ドキュメント/TVシリーズ【ソビエト社会主義共和国連邦の歴史的大罪】
 【スターリン主義の本質はマルクス主義の「歴史の法則的発展観」に既に内在している】
 民主集中制の本質が「視える化」された状態に過ぎない

 ■スターリン恐怖政治 「公開裁判」「粛清」「見世物裁判」
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「チェーカー」 ウラジーミル・レーニン直属秘密警察組織
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共産党暗黒白書、「二千万人大虐殺」
 ■ソビエト強制収容所
 ■スターリン恐怖政治 強力な個人崇拝とプロパガンダ
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ソ連邦の統制でスターリン崇拝を強要されたバルト三国の悲劇
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家族を密告した「少女オーリャ」
 ■キリスト教會弾圧「宗教は阿片なり」