市 民

森永ヒ素ミルク中毒事件は、昭和30年(1955年)に日本で発生した、森永乳業の粉ミルクによる乳幼児の大量死亡・被害事件です。 森永は、猛毒のヒ素が混入した産業廃棄物由来の第二燐酸ソーダを、製品が新鮮であるように偽装する目的で赤ちゃん用粉ミルクに添加したため、1万2千名以上の膨大な被害者を生み出し、1年以内に131人の赤ん坊が死亡するという世界最大の食品公害となりました。未だに多くの被害者が理不尽な扱いに苦しみ続けています。

カテゴリ:森永事件の今も続く闇 > 今も進む歴史の改ざん

2月、8月、半年で2件。おなじパターンの死亡事故。
ずさんな製造現場の実態明るみに…

 森永ヒ素ミルク中毒事件を岡山県衛生部が発表したのは1955年8月24日。その61周年の前日に当ブログのコメントに訃報が寄せられた。森永乳業の工場で今年になって二度も死亡事故が連続しているという内部告発にも似た書き込みだ。
 おなじパターンの死亡事故をわずか半年で2回も繰り返すなど、常軌を逸した製造現場の実態だ。森永乳業が、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者を平然と弾圧し、未だに事件史の歴史歪曲(※1)を続けているその企業体質は、同時に自らの社員・現場労働者をないがしろにする体質と同根だということだ。食品製造業でありながら、今も変わらぬ同社の内外問わずの「人命軽視」の体質があらわとなった。
 しかし、よりによって、8月23日に岡山隣県の工場で死亡事故とは…。同社は反省無きゆえに呪われているのだろうか?
 9/5【間断なく続く異常事態と乱脈の数々】を文末に追加 

【8月23日 神戸工場】
機械に挟まれ作業員死亡=森永乳業工場で事故-神戸

2016年8月23日 18時15分  時事通信社

 23日午前10時半ごろ、神戸市灘区摩耶埠頭にある森永乳業神戸工場で、作業員城孝史さん(58)=大阪府豊中市=が作業中に機械に体を挟まれた。城さんは病院に搬送されたが、腹部を強く圧迫されるなどしたため間もなく死亡。兵庫県警灘署が事故原因を調べている。

 同署によると、城さんは事故当時、紅茶をプラスチックカップに入れる作業に従事していた。本来は全て機械がやるが、何らかのトラブルで緊急停止したため、城さんが一部を手作業で行っていた。しかし、急に機械が動きだし、体を挟まれたとみられる。

 森永乳業の話 痛ましい事故が発生してしまったことを厳粛に受け止め、安全管理の徹底と再発防止に努める。(時事通信)
 
【2月16日 福島工場】
体挟まれ男性死亡 機械点検中か 福島の食品工場
 

 14日午前11時55分ごろ、福島市伏拝字清水内五の森永乳業福島工場で、工場に勤務する同市北矢野目字舘九、会社員福地一徳さん(50)がアイスクリームを硬化させる大型機械の駆動チェーンに上半身を挟まれて死亡しているのを同僚の社員が発見し、119番通報した。福島署は労災死亡事故とみて詳しい死因を調べている  2016/02/16 10:10 【福島民報】
【別報】NHK
 14日正午前、福島市伏拝にある森永乳業の福島工場で、森永乳業の社員男性(50)がアイスクリームを凍らせて固める大型の機械に頭などを挟まれているのが見つかり、まもなく死亡が確認された。

 森永乳業によると、男性は機械の保守点検が担当で、14日は、朝8時半ごろから機械を動かして油を塗る点検作業を1人で行っていたが、昼休みになっても姿が見えないのを不審に思った同僚が見つけたという。

 この機械は、内部でコンベアに乗った商品のアイスクリームを下かららせん状に上昇させながら冷やして固める仕組みで、男性は、コンベアを回すための軸とチェーンの間に挟まれていたという。
 警察は、保守点検の作業中に誤って挟まれたとみて、工場の関係者に当時の状況を聞くとともに、現場検証を行って、事故の詳しい原因を調べている。 出典URLhttp://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6055889301.html?t=1455483751504

【30年続く異常事態と乱脈運営】
粛清、尾行、歴史歪曲、言論弾圧、誹謗中傷、裁判、
ウソ番組、談合、横領、チカン、夜逃げ隠蔽、
連続死亡事故…異常すぎる野合体質

■1980年代までに 守る会、ひかり協会を批判する親、被害者本人ら、大量に除名・追放される。
■1982年~1991年 広島の重症被害者の親で「ひかり協会」のあり方に
 批判的であった山田氏の素行記録が9年にわたり記録され、そのメモがばら撒かれる
■1994年頃 ひかり協会職員が、岡山の重症被害者に対し、差別暴言を吐き続ける
■1997年頃から故・中坊公平氏、森永事件史を歪曲する発言を拡散
 「森永の被害者はそれなりによくしてもらって森永に感謝している 云々」
■2002年の森永乳業・顧問:菊池孝夫氏が歴史歪曲発言
 故・中坊公平氏との対談で、要旨「ヒ素中毒による後遺症は中間管理職が握り
 つぶしていたから、上部の者は知らなかった」などと雑誌で公言。
 (最近になり、ようやくこの「顧問制度」がパラサイト現象として批判が始まる)
■2003年 「被害者を守る会」が「異論を言う」との理由で会員の親の総会出席を妨害
 「被害者を守る会」異論排除を当然のごとく報道機関に公言
■2003年 重症被害者家族がひかり協会」と「被害者を守る会」が人権侵害をしている
 として岡山弁護士会へ人権救済申し立て
■2003年重症被害者の親が、「ひかり協会」の救済対策が不十分として
 広島弁護士会へ人権救済申し立て
■関西テレビ「ザ・ドキュメント恩讐のかなた」が救済について以下の嘘八百。
 「補償は行政が中心で森永が不足を補うシステムです…」
 更に、番組中で、重症被害者に「ミルク中毒でよかった」といわせ、
 ナレーションは、勝手に「森永に恨みはない」と「主張」を展開。
 被害者団体、歴史歪曲を進める加害企業のボス、中坊公平がそろって登場。 
 市民からの「事実と異なる」との抗議に対して
 番組制作担当者は「私はジャーナリストじゃありません」と返答
 そのくせ、その後、ギャラクシー賞に応募し、「受賞」を自画自賛。
■2007年 巨額横領事件で森永乳業・元課長代理逮捕される 販促費詐取容疑
 警視庁は2001年末から06年3月まで計約1億5000万円を詐取したと追及。
 横領した金は車や愛人に充てたとの自白。
■2009年 岡山の市民・能瀬英太郎氏が被害者団体を告訴
 重症被害者家族の支援を行っていた岡山の市民・能瀬英太郎氏を、
 被害者団体が機関紙1面全面を使って誹謗中傷したことへの対抗措置
 公判の公文書中で、被害者団体は重症被害者を「働かない被害者」と放言し、
 「関西テレビ」のDVDを「被害者が被告に感謝している証拠」として地裁に提出。
 メディアを利用した、加害企業との合作プロパガンダの意図が鮮明に。
 →2012年3月26日 岡山地裁で被告・被害者団体に有罪判決。
■2012年 能瀬訴訟控訴審で被害者団体に再度、有罪判決下り、確定
 広島高裁は被害者団体の控訴を棄却し、加えて有罪判決を補強
■2012年 防衛医科大での談合で、森永乳業社員が送検さる
■2012年 森永乳業社員、痴漢(チカン)で逮捕 西宮・阪急電車内で/兵庫
■2012年 森永乳業、毎日新聞編集委員・小島正美氏をスカウト、
 CSR報告書で自社礼賛させ「マスコミを取り込め」と号令かけさせる 
 同年、同氏、原子力学会広報誌で “新聞記者は反文明的気質人種“ と放言
 同年、同氏、「日本乳業協会」の理事におさまる。
■2013 公益財団法人ひかり協会理事長 病院経営破産で逃亡中との告発&報道
 ひかり協会の対応、長期間、見られず
■2013年 重症被害者の高齢の親、
 森永・国・ひかり協会。守る会の4社を提訴(のち訴訟取り下げ)
■2013年 厚労省職員、森永事件被害者名簿455人分を電車網棚に放り上げて紛失
■2013年 厚労省職員不祥事事件、森永ヒ素ミルク中毒事件資料館厚労省宛
 3回の公開質問。その最後で厚労省、被害者の累積死亡数を初公開
■2016年2月16日 森永乳業・福島工場: 体挟まれ男性死亡
■2016年8月23日 森永乳業・神戸工場: 機械に挟まれ作業員死亡

※1「事件後14年目は晴天のへきれき」「事件の後遺症は管理職がもみ消して幹部はしらなかった」などと明確なウソを雑誌や関西テレビ制作「ドキュメンタリー」で公言した同社顧問の言動などはそのさいたるもので、被害者や死亡者の御霊を冒涜する恥知らずな言動である。これに関連して、ウィキペディアは依然、砒素混入の経過を森永に有利に誘導するように捻じ曲げたままであり、歴史歪曲主義者の悪意の存在を明確に裏付けている。)

【参考記事】 森永ミルク事件の今も続く不正
http://morinaga-hiso.blog.jp/archives/1058436809.html


【報道 山陽新聞 1面 「滴一滴」2016年8月27日付】
山陽新聞 滴一滴20160827
















【報道 山陽新聞 8月23日付】23


「…封印され廃棄処分を命ぜられた筈の毒ミルク60万缶が何時の間にか売り捌かれ東京ではそれが闇に流れていると噂されている。…」
(岡崎哲夫著「森永ミルク事件史」-1957年-144頁)

この件について、以下のコメントが寄せられた。

─猛毒「森永ヒ素ミルク」をニワトリの餌に混ぜ、
 全国民にコッソリ食わせた「闇」の詳細が明るみに─


44. MF5808 2015年11月18日 09:13(多少文書を整理した)(※1)
 ここに書かれていることは、重大問題を含んでいることをまず理解していただきたい。
 1955年の事件発生直後のこと、岡大医学部へ持ちこまれた「ヒ素入りミルク」の疑いのあるMF、MC、MLの三種、それぞれ製造月日の異なるものを法医学教室で分析をした。分析したロット番号順に一覧表が『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』(昭和32年10月岡山県発行)に掲載されている。
 厚生省は事件発生直後には、ヒ素含有ミルクは廃棄処分にすると新聞発表している。ところがその後方針を180度変更する。実験の結果が良好なら、育雛飼料(※2)として利用する方針になった。
 実験に使われた「有毒ミルク」がMF5808ということである(※3)。ところが、このロット番号は岡大医学部法医学教室の分析表には登場しない。前掲書の巻末の一覧表のどこにもない、いや本全体のどこにもない。
  その「MF5808」を使って育雛実験をしたということが、もしかしたらもともと「無毒缶」ではなかったかという疑問を「記録マニア」氏(下記)は述べておられると読みとれる。
 192羽の実験で1羽の死亡という「好結果」であったことが、MF5808は「無毒缶」との疑いを強くする。普通ニワトリを飼育していても1羽くらいは死ぬものだ。ワザワザヒ素の入っているミルクをエサに混ぜて育てて、1羽しか死なないというのが、そもそもマユツバものではないか。
 見せかけ上の実験で好結果をのこし、実際の飼料製造には本物の「有毒ミルク」を混ぜて作ったのだ。その結果は各地でヒナの大量死を招いた(※4)
 だが、飼料のなかに「ヒ素ミルク」が混ぜてあることなど農家は知らなかったので、天候のせいにしたり、他の理由にして深く追及しなかった。このことを書いたのは14年経った後に「婦民新聞」など少数。マスコミは無視したので、うやむやにしてしまった。

(註)
※1  「MF5808」氏 の投稿コメント
 記事 「多国籍企業シェルが開発した「相互秘密保持契約」 森永ヒ素ミルク中毒・被害者への支配構図、米国でコピー登場http://morinaga-hiso.blog.jp/archives/1033260039.html#comments 
へ寄稿されたペンネーム「MF5808」氏のコメント
※2 育雛飼料
 ひな鳥のえさ。実際に「F印 育雛用飼料」の商品名で販売された。出典: 『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』(昭和32年10月1日岡山県発行)
 昭和30年8月28日付山陽新聞一面記事
 「…同省木村次官、紅露政務次官、山口公衆局長、楠本環境衛生局長らは同日午後の徳島工場にたいする行政問題を協議した結果同工場製品のうち、何月から何月までのものが有毒なのか、また調査の結果、これが同工場の過失か不可抗力かのいずれによるものかを判定したうえで、何らかの措置をとることにし、回収したMF製品のうち国立衛生研究所が有毒と認めた製造期間内のものに限って廃棄処分の手段をとることを決めた。」
 なお最近、一市民が、「MF製品のうち国立衛生研究所が有毒と認めた製造期間内」の検査の有無を国立衛生研究所へ問い合わせたところ、以下の回答であった。
 「(国立衛生研究所宛てに)直接メールを出しましたら、HPがあるからと教えられ、そこへアクセスしましたら、昭和30年頃の研究項目が並んでいました。その研究のなかに、岡山大学医学部から死亡被害児の肝臓の一部を提供され、それから砒素を検出したという内容が記述されていました。それは簡単なものでしたが、それ以外には砒素ミルクに関する研究はありませんでした。 」(記録マニア氏2015年11月30日寄稿)
 廃棄するとして回収された莫大な量の森永砒素ミルク缶は、「MF5808」ただ一缶だけの供試で「ニワトリのヒナに与えてもさして問題なし」とされ、大規模に再流通されることになった。
 浜本英次教授編纂の上掲書『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』(表紙が赤いので、当時「赤本」と呼称された)のなかでは、さも科学的な根拠を得たかのように表現されている。
 この飼料の売上金、当時の価格にして約1千万円(現在価値は1億円を越える)が、「森永奉仕会」の設立資金として流用された。回収した東京都が製造を促したと思われる。この「森永奉仕会」の事業目的は、全国の国公立・私立大学へ森永乳業のカネを「研究資金」の名目でばら撒くことだ。このカネは、(1955年から1968年までの)被害者救済運動の存在を国民の目から隠蔽し弾圧するため、御用研究者への実質的な買収資金として活用された。この基金は今も厚労省所管の財団法人として存続しており、「森永乳業に奉仕する研究者」を育成し続けている。現在の「寄付講座」や「産官学協同」の悪質な側面を生み出した端緒ともいえる。
 なお、故・岡崎哲夫氏は岡山県衛生部に「赤本」を請求したが、岡山県は「(被害児)救済運動を中止するなら渡してもいい」などという発言を行った。このような偽装に基づく不正行為がバレることも大いに恐れたと思われる。岡崎氏は迂回経由で「赤本」を手に入れ、その内容を「事件史」で告発したが、既にメディアは一切の沈黙を決め込んでいた。全国民の体内への、ニワトリを通じた砒素ミルク摂取も同じく隠蔽されてしまった。直接的には東京都の手によるものだが、森永乳業と厚生省と御用医師グループ、それに追随・安住するメディアの結託がベースにあったことはいうまでもない。
※3 実験に使われた「有毒ミルク」がMF5808
 『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』(昭和32年10月1日岡山県発行)の297P<「(26)森永MF印よにる(ママ)鶏雛の飼養実験について」1供試飼料>、同じく298P掲載<供試粉乳 森永粉乳MF5808 砒素含有量22ppm >(※1へのcoment 46. 「MF5808」氏 2015年11月29日 08:27)
※4 ヒナの大量死を招いた
森永告発機関紙『森永告発』第6号(1971年10月1日)
「砒素中毒は赤ちゃんだけではなかった 砒素ミルク飼料でニワトリも?……」
 岡山県勝田郡奈義町宮内の内藤勝野さんのお宅では昭和31年から32年にかけて、奈義町農協から育雛用の飼料を買ってニワトリを育てていましたが、飼っていた20羽が全部死んでしまいました。近所にもそういう家が多かったということです。死んだニワトリは、肝臓が異常に肥大しているなど、砒素ミルクの被害児の症状によく似ていたが、当時、砒素ミルクがニワトリの飼料になったことなど全く知らず、不審には思いましたが、天候のせいだろうと片付けていました。
 最近になって、料理講習会があったとき、その講師が、毎日新聞の「黒いミルク」記事を引用して「森永はひどい。毒ミルクを養鶏のエサにした」と言ったことから、当時の記憶がよみがえって来ました。
 32年~36年当時、奈義町農協の組合長をしていた船曳澄衛さんの話によると、その飼料は全購連から買ったということです。
 昭和32年に岡山県が発行した『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』によると、「有毒粉乳」の配布先として全購連の名もあり(301ページ)それらのニワトリが砒素ミルクの犠牲者であることは、ほぼ間違いありません。
 当時の処理缶数は約45万缶、従って全国的にはかなり多く出回っていたはずであり、同じような被害は他にも多くあったでしょう。また、それらのニワトリが産んだ卵や鶏肉を食べた人間も多いはず。それらの人々はほんとうに無事だったのでしょうか。ひょっとするとあなたも……? (以上全文引用)
 (※1へのcoment 47及び50、「三百代言」氏 2015年11月29-30日)

【事件解説ポスター 7頁 現在も存続中の「森永奉仕会」設立の経緯を参照】
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-poster-00.pdf


【参考資料】
43. 記録マニア  2015年08月17日 17:20
http://morinaga-hiso.blog.jp/archives/1033260039.html#comments
「お母さんはねえ、坊やの疑問にこたえるために、MF5808がどこへいったのか、探しているのよ。それでね、いちばんいきそうな心当たりをさがしたわ」「お母さんMF5808はどこにあったの」「国立衛生研究所があやしいとにらんだの、ホームページからさがしたわ」「そうしたらどうなったの」「国立衛生研究所では昭和31年にヒ素ミルクに関する研究をしていることがわかったの。でもね、それは死んだ赤ちゃんの肝臓の一部を岡大医学部から送って貰い、その中のヒ素検出をしただけなの」「赤ちゃんかわいそう」「ヒ素入りミルクの分析実験はやってはいないことがわかったの」「おかあさん、MF5808はどこからきたのでしょうかねえ?」

「森永ミルク事件史」は以下からダウンロードできる。
〔※森永告発の「砒素ミルク2」(1973)は「森永ミルク事件史」(1957)復刻版〕
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-book-hisomilk2-1pdf.PDF (上巻)
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-book-hisomilk2-2pdf.PDF (下巻)

出典:森永ヒ素ミルク中毒事件資料館アーカイブス
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-jiken-no-jissou-syousai-hm1.htm

MC、ML印からの砒素中毒被害者を闇に葬ったまま?!
「救済」は記憶の薄れた国民をだますプロパガンダか!

http://morinaga-hiso.blog.jp/archives/1034015475.html#comments
「いじめと差別が蔓延する日本~公益財団法人「ひかり協会」の複数職員による差別暴言の記録」
の記事に関して、以下二通の情報がコメント欄に寄せられた。

1.
6月22日の朝日新聞、【キーワード】にはヒ素ミルク製造は森永乳業徳島工場とかいてありますが、これはすこしあやしくなってきました。というのは1973年6月3日付の同紙には「MC、ML印の患者7府県から28人も報告」とあります。記事中にはMC患者のうち5人が登録患者になっていると報道されているからです。MC(平塚工場製)、ML(長野工場製)で両工場はβミルクを製造していました。朝日新聞は、自社の報道と矛盾することを平気で書いていることをどう釈明するのでしょうか。
(記録マニアさん 2015年07月31日 11:10 指摘投稿)


2.
1973年6月2日の毎日新聞記事によると「被害児の認定に新事実 会社の作った患者名簿にMCの18人掲載」とあるよ。MCを長男に飲ませていた黒田耕司さんの話 「黒田さんは18人で神戸市ベータドライミルク中毒者同盟を発足、会社と交渉してそれぞれ治療費や〝見舞金〟を受け取り、全員症状が軽かったこともあり、同盟は二カ月ほどで自然解散した」と語っている。(略)森永はMCによる患者を認めていないのに、(略)昨年各家庭を回り、その後の容体を問い合わせていることがわかった。(後略)
(記録より記憶さん 2015年08月06日 11:03 指摘投稿)

3.
当ブログ側で提供情報を精査した結果、以上2点の指摘は、すべて事実であるとの裏づけがとれたので、記事として立てることにした。今年は、事件発生60周年という節目の年。「国民の生命財産の安全」を声高にする国、及び、権力監視機能を発揮すべきメディア、その両者が追跡すべき重大な事案であると考える。
マスコミ関係者におかれては、被害が全て「徳島工場製」に限定されているかのような表現には、ご注意いただきたい。

参考資料:1970年代以降、森永乳業が被害者団体を腐敗させたのち、
再度、被害者へ開始している政治弾圧↓

http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-higaisya-dantai-no-huhai01.htm

追記: 森永乳業株式会社殿:
釈明等受け付ける。その際、透明性を担保するため、当ブログコメント欄へ社名・連絡先及び担当者氏名明記の上、書き込みされたし。

(11月3日時点で全く対応なし)

以上

---関テレ番組の恐るべき内容については以下アドレスからPDFがダウンロードできる。PDFが見れない方のために、放送番組内容の問題が指摘された部分のテキストを紹介する--
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-poster-00.pdf
「ドキュメント」と自称しつつ
嘘を並べた番組で「ギャラクシー賞」に応募し、受賞…。

「 2007年1月に「発掘!あるある大辞典」の「データ捏造やらせ問題」が暴露された関西テレビは、その年、2007年の年末に「ザ・ドキュメント恩讐のかなた森永ひ素ミルク事件52年目の訪問」という番組を放映した。
 その番組内容は酷いが、事件の背景を知らない視聴者にはなんとなく感動的に映り、事件を良く知っている視聴者には驚愕モノという巧妙な仕上がりだ。現被害者団体や、故・中坊公平氏、森永乳業が登場する。
 そして、森永乳業幹部が事件を「青天のヘキレキ」とうそぶき、“補償には上限があり行政サービスが中心になる“と字幕まで入れ、森永乳業が誓約を反故にできる珍説を強調する。極めつけは、被害者を登場させ、「(もった障害が)ミルク中毒でよかった」と“誰かに感謝”させるシーンだ。
 被害者が何を発言しようが自由であるが、テレビ局がどの発言を切り取るかは、編集方針という局の意志そのものである。ここでは、被害者をして感謝の対象にさせているのが現被害者団体か森永乳業かは巧妙に曖昧にされている。前者団体は、働けない重度被害者のことを、法廷提出の公文書で「働かない被害者」と書き、異論を言う被害者には恫喝と排除を行っている。

「被害者からの“感謝”(?)の証拠」として使い廻される番組
 最近、被害者団体は、能瀬訴訟の公判で、この番組を “被害者が被告に感謝している証拠” という趣旨で提出した。この番組に電話で抗議をした市民によると、担当ディレクターはおおよそ以下のような要旨の発言をしたらしい。

  視聴者: あの番組はひどい。ナレーターが  “救済には制限がある”  と
       言っているが事実とは違う。過去の歴史を調べたのですか?
  局:   いや、それはしてません…(中略)…
  視聴者: もしジャーナリストなら、事実を批判的にとらえないと、
       森永の宣伝をやるだけになるんじゃないですか?
  局:   私はジャーナリストではありません

 このようなやり取りを経た後も、同局は、「番組では、軽度の被害者が重度の被害者を助け合う守る会やひかり協会の事業に関わる人間同士の関わりから、生きるとは何か、人間の尊厳とは何かを問い続けます」と5年前の番組の自画自賛をネット上に掲載し続けている。
 更にこの番組は「ギャラクシー賞」を受賞した。審査はもっと厳正にしてほしいものである。

市民からの批判を黙殺した同局・番組審議会。
 同局の番組審議会ページ・ウエブ版では、同「ドキュメンタリー」について、「現状を肯定して、これからの人生を考えるという意味では、『ミルク中毒でよかった』、『運命として受け取っている』という言葉は恐らく自然に出てきた言葉だろうと思う。」(関西テレビ番組審議会No.491 2007.12.13)などという不審な意見が掲載されている。
 言い訳にもなってないばかりか、被害者への上から目線や、ヒトゴト感覚を前提・利用して構成されたかのようにも見えてしまう。

主客転倒の嘘で、救済策の大幅後退を糊塗
 番組は、森永乳業が事件当時にも被害者団体を怒らせ、この企業がその後、常套句として使いまわしている「晴天の霹靂」を番組で再度復活させ、森永に「検診を続けておけば被害の拡散は防げた」と白々しくヒトゴトのように言わせて歴史を大きく偽造している。そして、一転、「森永憎しの親の思いは封印」と勝手に親の気持ちを決め付け、「森永に恨みはない」「(持った障害が)ミルク中毒でよかった」とご丁寧にテロップまで流す。その後、なんだかんだとストーリーを展開しつつ、「森永の補償に上限があり行政サービスを活用し、その上でひかり協会からお金を出すシステムです。」とか「行政だけでは足りない部分を、ひかり協会が支援します」と主客転倒・嘘八百のびっくりナレーションで、しっかりトドメを刺す。
(※救済策の大幅後退一覧表↓画像ダウンロード可能 出典「森永ヒ素ミルク中毒事件 発生から50年 被害者救済事業の実施状況-pdf版フリー」 能瀬英太郎著/ちなみに同氏は、このような告発がもとで、現被害者団体の機関紙から嘘のヒボウ中傷を受けた。能瀬氏は、現被害者団体を名誉毀損で告訴。裁判所は被告の記事が事実と異なる事を認め、現被害者団体に有罪判決を下し、確定した。能瀬訴訟一審1控訴審勝訴確定2 この番組は、被害者の親やそれを助ける能瀬氏らが内部告発を開始した時期より、かなり後に制作されているし、その批判を知る機会がなかったとは到底いえない。それともディレクターは2007年時点では新聞という媒体やインターネットという媒体の存在を知らなかったと言うつもりだろうか。いずれにしても、当事者を含めた市民からの批判を検証した形跡は全く見られない)


nose-report-jisshijyoukyou-jpeg

被害者を見世物にしながらのプロパガンダ
 被害者の生活を情緒的に紹介した上で、視聴者に偽装された内容を信じさせる方向へ心的に誘導するという、高度な詭弁論の手法である。これこそ被害者を見世物にしながら「観衆」を特定の政治目的に誘導する確信的なプロパガンダの手法だ」

------以上引用終わり(若干加筆有り)-----


なお、この手の込んだプロパガンダがどのように計画されたかは、大いに興味有るところである。


【参考資料1】出典:雑誌『週刊現代』 2014.2.22発売号
政界に野心あり過ぎの森永と安部政権




















【参考資料2】出典:http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-poster-00.pdf
戦後初の御用学者 出典:森永ヒ素ミルク中毒事件資料館
【参考資料3】出典:http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/jinnkennkyuusai.htm
yamadasi-jinkenkyusai-mousitatejiken





















【参考資料4】出典:http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/bengosi-igi.htm
中坊公平氏の拡散した言説(被害者の尊厳を毀損する言説)



























【参考資料5】
森永乳業顧問が最近になって流し始めた大きな嘘
森永乳業は事件後も、さらには救済合意後も被害者団体への露骨な政治的介入をやめないばかりか、篭絡しつくし、今もって自身の企業犯罪の隠蔽と歴史の歪曲を続けている。これは同社の資金拠出を完全に無意味化するほどの継続的な人格権への毀損行為である。
出典:http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-propaganda02.htm
出典:http://morinaga-hiso.blog.jp/archives/3019264.html
森永乳業が継続的に続けている歴史偽造のプロパガンダ



























同社は納税額の圧縮に「救済資金」を利用している

 森永乳業の有価証券報告書を一瞥しただけでも、同社は、「ひかり協会」への拠出金を、税引き前利益から損金勘定で差っぴいている。この財務処理を国は森永に認めている。
 つまり「ひかり協会」への支出金は、売り上げを5千億円前後にまで回復し、十分に息を吹き返した森永乳業の納税額を引き下げる「節税」効果を果たしている。同社がそのような位置づけで「ひかり協会」への資金拠出を取り扱っていることにも、マスコミ関係者はもっと注意を払うべきだろう。

NHK出版編集長を懲戒免職 校正業務の架空発注などで  
msn産経ニュース 2014.3.6
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140306/crm14030614110015-n1.htm
 NHK子会社のNHK出版は6日、架空の校正業務の発注やカラ出張などで計約1350万円をだまし取ったとして、放送・学芸図書編集部の河野逸人編集長(52)を同日付で懲戒免職にしたと発表した。  NHKの子会社をめぐっては、5日にも別会社で不適切な経理処理が発覚。籾井勝人NHK会長は6日の定例記者会見で、NHK出版への調査を行うとともに、会長直属の調査委員会で関連団体も含めた経理の適正化に取り組む方針を示した。
  NHK出版によると、河野編集長は2003年1月から13年12月にかけて、大河ドラマなどの編集で架空の校正業務を発注したり、不必要な校正を親族に行わせたりして、計約900万円を同社に支払わせた。また、私的な飲食費やカラ出張の経費の請求により、約450万円を受け取った。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
以下は、かつて、安倍晋三氏によるNHKへの介入が取りざたされた時期、
そして上記編集長の汚職が開始された時期に発生した問題である。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

中坊氏の手柄にするために
           歴史的事実を歪曲してもいいのか

 ~「加害者に感謝する被害者」なる恐るべきプロパガンダに先鞭をつけたNHK出版~
フリーライター:能瀬英太郎 2004年記
政界に野心あり過ぎの森永と安部政権
 岡山市の南部にある児島湖は、諫早湾締切堤防工事の未来像として格好のモデルである。このまま締切り工事を続行すれば、現在の児島湖は未来の諫早湾の姿である。そのうち湖沼の水質汚染度の上位にランクされ、児島湖と首位を競うことになるであろう。

 児島湖の海底には十メートルあまりの汚泥が堆積して、その除去工事に莫大な費用をつぎこんでいる。しかし除去するあとから汚泥は堆積してくるので、終りはない。淡水化した水を農業用水に使うという当初の目的は、今では汚染が激しく野菜の栽培に使用するには不適当と、農家は敬遠しているという。

 淡水化以前は多彩な魚介類が生息していた児島湾は、現在では汚染されて捕獲される魚類を地元の人は口にはしない。

 そんな児島湖で捕獲されたアメリカ・ザリガニが、東京のある高級レストランで料理として出されている様子をNHKテレビが放映した。岡山支局のアナウンサーがおいしそうに食べている画面をみて、私は驚いた。いまから十数年前のことだが、児島湖では汚染によって骨が曲がったり、体に潰瘍ができたフナがたくさん発見され問題になっていた。

 児島湖には倉敷川、加茂川、笹が瀬川が流れこんでいる。その中でも笹が瀬川の米倉港は、冬になるとへらブナ釣りのポイントとして有名だということだ。釣り上げたフナは「琵琶湖産」になって、関西方面へ出荷されるという。

 「大寒」になると毎年必ずNHK岡山放送局は、米倉港でフナを釣る人を放映した。カメラマンは「大寒の風物詩」として写し、アナウンサーは情緒的な解説をいれる。釣人の回りは流れついた発砲スチロールで埋まっていようと、水が汚染されていようと、切り取られた画面とは無関係なのである。

 もしNHKが報道機関なら、汚れた児島湖で捕れたザリガニを食用にしていることを問題にすべきだと思う。寒ブナをつる人を風物詩として写すより、汚染された川から釣り上げられたフナが「琵琶湖産」に化けていることを訴えるべきだ。

 私がNHK岡山放送局へ電話してそのように抗議をすると、翌年からは「寒ブナ釣り」の画面は写さなくなった。それだけでお終いで、汚染のことを問題にするわけではなかった。まことにNHK的問題処理のしかたであると腹がたった。

 これらの出来事を思い出したのは、先日私とNHKとの間であった「やりとり」と関係がある。

 今では「中坊ブーム」も下火になったが、二三年前までは彼の人気は大したものだった。テレビ出演にあるいは新聞の見出しに、出版される本の広告にと彼の名前を聞かぬ日はないくらいだった。彼が「自分が変わる転機になった」として、いつも取り上げるのが「森永ヒ素ミルク中毒事件」とのかかわりである。

 被害者救済機関として「財団法人ひかり協会」が誕生したのが約三十年前で、それ以後森永ヒ素ミルク中毒事件に関する報道はほとんどされなくなっていた。これで「一件落着」とばかり、マスコミの関心はこの事件から離れていった。それが中坊氏が有名になると同時に、彼の口を通してこの事件のことが語られるようになった。ひかり協会の設立当時、被害者たちは損害賠償を求めて民事裁判を大阪、岡山、高松で起こして、彼はその弁護団長だった。

 私が『野戦の指揮官・中坊公平』を読むことになったのは、古本屋の百円均一コーナーで見付けたからだ。どのようなことが書かれているのか、ちょっと読んでみるのには手頃な値段だと思って買った。他のところはともかくとして、森永ヒ素ミルク中毒事件についての部分をだけを読んだ。それは「第二章中坊公平の遅すぎた青春」の中に収められていた。 第二章は六十六から百四ページまでで約四十ページを費やされいるが、読んでいて驚いたのは間違いの多いことだった。それも基本的な事実について、資料も調べずに書いているのではないかと思うほどだった。

 著者は、NHK社会情報番組部チーフ・プロデューサーという立派な肩書きをもった、今井彰氏だ。「あとがき」の最後には「そしてこの最初の本の出版後、中坊氏に関するさまざまな書籍が出た。(略)人間・中坊公平を描いた本物の一冊だと信じている」と自慢している。私が買ったのは「NHKライブラリー」という文庫(二〇〇一年一月二十五日発行)で、「本書は当社単行本NHKスペシャル セレクション『野戦の指揮官・中坊公平』(一九九七年十一月三十日発行)をNHKライブラリーに収載したのものです。」ということわりがきがあった。もとの本も読んでみたが内容は勿論同じだった。

 この本を読んで事実と違うと私が思った箇所を次に列挙してみる。

  六八ページ「MF缶と呼ばれる人工粉乳に、ヒ素が含まれていたことが発覚した」

  六九ページ「死者には一律五十万円、その他は症状に応じての賠償も行われていた。」

  六九ページ「この調査は『十四年目の訪問』として、一冊にまとめられた。また、この調査結果を知った医師らの働きで、学会でも報告され、マスコミの注目を集めることになる。」

  六九ページ「依頼してきたのは、昭和四十四年から被害者救済にあたっていた青年法律家協会に所属する弁護士だった。」

  八一ページ「国の責任は、厚生省がそれまで使用禁止にされていた第二燐酸ソーダという化学合成品を、いったん使用可能にしたこと。」 
  八二ページ「そして中坊は、法廷戦術と平行して、法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である。不買運動が効を奏せば、企業にとって致命的になる。まして、問題が問題である。社会の同情は原告に傾いていた。不買運動の効果は大きい。」

  九六ページ「中坊は何度も厚生省を尋ねた。被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた。」

  九六ページ「中坊は、この三者会談に賭けていた。民事上の損害賠償の除斥期間は二十年、因果関係を立証する時間にも限りがある。なによりも、裁判の中だけで埋め合わせることのできない事態であることが十分すぎるほど中坊にはわかっていた。」

  九八ページ「被害者の成長と事情に合わせて事業を拡大し、充実させている。」

 10 九八ページ「三者会談の結果、永久的な救済施設として、一九七四(昭和四十九年)年、財団法人ひかり協会が設立された。」

 上記の十項目が事実とは違っている。 

2. NHK出版への申し入れ

 私はニ〇〇三年 (※1)七月二十二日著者宛てに出版元へファックスを送り訂正を求めた。これに対して翌二十三日(株)日本放送出版協会編集部第二図書出版部部長長岡信孝氏から次のようなファックスが届いた。要点だけ記す。
「さて、このたびは弊社から出版されましたNHKライブラリー『野戦の指揮官・中坊公平』(今井彰・首藤圭子共著、二〇〇一年一月二五日発行)の記載中の内容につきまして、一部事実誤認の箇所がある旨を7/22(火)付けのFAXにて拝見しました。内容に関することなので、著者、今井・首藤両氏がご指摘の箇所について至急取り調べのうえ、文書にてご報告させていただきます。なにとぞ御了承ください。」

 私は前記1から9までを三回にわけて指摘した。というのは読むたびにこれはおかしいと思い、七月二八日と八月四日に追加として送った。

 それでは私が事実とは違うと思う根拠を順番に述べていきたい。

 1の「人工粉乳」というものはない。人工の牛乳で製造すればそう言えるが、まだ聞いたことはない。事件発生からこれまで使用されてきたのは「粉乳」「粉ミルク」あるいは「ドライミルク」などの名称である。粉乳、粉ミルク、ドライミルクは意味は同じで水分を蒸発させて作ったものだ。それに対して「練乳」というのがあり、これらは製法上の分類である。

 粉乳のなかには「脱脂粉乳」、「全脂粉乳」、「調整粉乳」などがあり脂肪のある無し、または栄養素の添加などでそれらの分類がある。「人工粉乳」の意味を本文では「いわゆる粉ミルク、赤ん坊に飲ませるものだ。」と述べている。それならなぜ今まで使用されてきた名称を使わず「人工粉乳」なとどいう奇妙で意味不明な造語を使用するのか。

 2は「死者には二十五万円、その他は一律一万円」が正確な補償金額であり、このような基本的な事実を資料によらないで述べる意図がわからない。この金額は一九五五年十月二十一日に森永の要請で厚生省が有識者に依頼して結成された「五人委員会」が作成した「森永粉乳中毒事件の補償等に関する意見書」によるものだ。この委員会はこの後に発生する公害事件の解決に活用される「第三者委員会」の悪しき原形となる。公正な第三者のような顔をした、いわゆる有識者が公害発生企業を弁護する仕組みが森永ヒ素ミルク中毒事件で最初に登場することになった。

 3の「十四年目の訪問」についての記述は、片面的である。大阪の養護学校教諭が調査した結果が公衆衛生学会で発表され、それだけで新聞発表されセンセーションを巻き起こしたように書かれている。しかし、その裏付けとして岡山の被害者が社会から無視されながらも地道な活動で、自主検診を重ねそのデータの蓄積があったことを抜かしている。「十四年目の訪問」はいわば聞き書きであり、臨床検診のデータという裏付けがあって初めて有効性をもつ。新聞発表される前日に、岡山の守る会事務局長岡崎哲夫氏と面接して記者はそのデータを見ている。この自主検診での証明があったから発表することができ、両者は表裏一体の関係にあるのだ。

 4は「昭和四十四年から被害者救済……」に問題がある。同年十月十八日に「十四年目の訪問」が発表され、その後被害者を支援する「大阪府森永ミルク中毒対策会議」が結成されたのが昭和四十六年十二月十三日となっている。この中のメンバーに青年法律家協会も入っているのだから、どうみても四十四年からすでに被害者救済をしていたとは眉唾ものだ。

 5は「第二燐酸ソーダという化学合成品を……」というのは間違いである。「第二燐酸ソーダ」のみ使用が緩和されたわけではない。「などの化学合成品」と書かないと、正確ではない。多くの化学合成品のなかの一つに、この薬品も含まれていたのだ。

 6についてはデタラメもいいとこである。この著者は不買運動をすることになった状況を調べもせずに書いている。「十四年目の訪問」を契機として、被害者の組織である森永ミルク中毒のこどもを守る会(以下、守る会)に参加する会員が急速に増加した。守る会は組織としては不買運動に踏み切らないが支援者がするのは「ご勝手に」という方針だった。私が参加していた森永告発は、設立時から不買運動の拡大を主要な運動方針にしていた。各地の大学生協などにも、不買運動を呼び掛けていた。私たちは岡山の繁華街において、毎週不買運動を市民に訴えるためにビラ撒きをしていた。その他不買ステッカー、シールなどを作製して販売していた。

 昭和四十五年十二月を第一回として守る会と森永との間において、本部交渉が始まった。主な議題は被害者の救済についてであった。守る会は企業責任を認めた上での救済を要求したが、森永はそれを否認して救済のお手伝いという姿勢に終始した。交渉は第一五回目で決裂した。

 昭和四十七年十二月三日森永社長が出席することになっていた第一五回本部交渉に、森永側は約束を破って社長が欠席し、一方的に交渉を打ち切って退席した。そこで守る会は急遽第二回全国集会に切り替えて、民事訴訟提訴と森永製品の不買運動を決議した。

 ここで初めて守る会は組織として不買運動に取り組んだのである。それまでなぜ不買運動に慎重だったかといえば、事件当時に交渉の道具として不買運動を提唱して失敗した経験があるからだ。だが、守る会が国民に不買運動を呼び掛けた時期には、すでに多くの大学生や大学生協は実行していた。それを知ろうと思えば守る会の当時の機関紙「ひかり」を見ればいい。不買運動に参加を表明した組織の名前が掲載されている。

 不買運動と個人のかかわりについては、それは個々人の良心の問題でありはっきり把握はできない。無名の人が誰にも告げずに森永製品不買の行動をとり、その集積が森永の経営に反映したといえる。これら多くの人の無言の行動を「駆使」することなど不可能である。それに中坊氏が弁護団に加わったのは、翌年の一月とご本人が述べている(『中坊公平・私の事件簿』九三ページ)のだから、その時すでに不買運動は始まっていた。
    ※1)今回不正が発覚した河野編集長は、まさに2003年1月から2013年12月にかけて
                カネを騙し取っていた。

3. ウソにウソを重ねる


 7も6に劣らないウソであり、それもより悪質なものである。

 ここに書かれている当時の状況は、交渉が決裂し守る会が不買運動と民事訴訟に踏み切った時期のことである。守る会が大阪を第一波として提訴したのは昭和四十八年四月十日である。八月二十四日には第二波として岡山で、十一月二十四日には高松で第三波として提訴した。

 不買運動と民事訴訟に踏み切って以来、森永と守る会の接触は無くなっていたが、五月二十二日に岡崎事務局長に森永社員が提案をもって接触してきた。この案に対して守る会は六月八日に検討の価値がないとして拒否の回答をした。七月になって当時の山口敏夫厚生政務次官から、話し合いのテーブルにつかないかという非公式の打診が守る会の幹部にたいしてなされた。その後、厚生大臣の意向をうけた山口氏は、森永側の約束もとりつけた上で話し合いのテーブルにつくよう守る会へ要請してきた。

 『森永砒素ミルク闘争二十年史』によれば守る会事務局長岡崎哲夫氏は「森永の大野社長からも守る会に対し、貴会の恒久対策案を包括的に認めて誠意をつくさせていただくことを厚生省にもご確約申し上げましたので、何とぞ宜しくご配慮を賜るようお願い申し上げます。との書簡が届けられた」と書いている。これは九月二十六日のことであった。

 九月三十日の守る会第三十四回全国理事会で検討した結果、守る会・厚生省・森永の三者会談に臨むことを正式に決定したのである。だから「被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出す」必要はなかったのである。むしろ国と森永の方が接触を希望し、守る会がそれほど乗り気ではなかったといえる。だから著者はまったく正反対のことを書いている。

 さらに『金ではなく鉄として』中坊公平著、岩波書店二〇〇二年二月二十五日発行によれば

 七三年(昭和四十八年)も押し詰まった十二月二十三日になってよもやの事態が起きた。

「森永ミルク中毒のこどもを守る会」、森永乳業、厚生省の代表によるこの日の第五回三者会談で、「確認書」が作られ、即日、守る会理事長、森永乳業社長、厚生大臣が調印したというのだ。そして守る会執行部は、提訴取下げの方針を原告団に通告してきた。

 もとより、この訴訟の実質的な原告は守る会であり、原告団のメンバーは多くの被害者の代表として立てられていたのだが、それにしても、前面で行動してきた彼らにも、私たち弁護団にとっても、寝耳に水の急展開だった。(二一〇ページ)

 とあり、いろいろな資料を比較検討すると、どれも『野戦の指揮官・中坊公平』に書かれていることとは反対のことばかりである。

 8は7の内容を受けている。7には三者会談とは書いてないが、次の行にある「中坊は、この三者会談に賭けていた」の「この」は7に書いた事柄、即ち三者会談をさしていることは明白である。だから、7がウソであるのだから、8もあり得ないことは納得してもらえると思う。民事裁判が進行中でありながら、それを否定するかのような三者会談に「賭ける」とは弁護団を裏切ることである。常識的に考えても、弁護団長がやるはずはないのである。

 また『森永ミルク中毒事件と裁判』森永ミルク中毒被害者弁護団編、ミネルバ書房刊(昭和五〇年一二月二〇日発行)の中にある「座談会ー訴訟の終結と被害者の今後の救済をめぐってー」に出席していた守る会の幹部の発言でも、国と森永がしきりに会談をもとめてきたことを証言している。この座談会には中坊氏も出席して、三者会談について発言しているので、ちょっと長くなるが引用する。


  「中坊 多くの弁護士の方から三者会談をめぐって弁護団と守る会との緊密な関係が欠けていたという指摘がありましたが、かろうじて公式のものではなくても非公式であっても、例えば私自身が全国理事会に出席する等、何らかの形で弁護団とはそれなりの意思連絡はとっていたと思います。私たちも三者会談のあり方について、当時から意見をいい、守る会の御意向を承わっていたわけです。

 しかしそこで何らかの誤解が生じた、守る会の一部の方からは弁護団は一つの主義主張のために裁判をやっているのであって、救済のためではないという疑いを抱かれたんですね。それが緊密さを保てない一つの根底にあったようです。しかし私は弁護団の責任者としてこの際はっきり申し上げたいと思うんですが、私たちはすべて弁護団会議で報告検討して行動していたわけですが、私たちとして決してそんなことを未だかって考えたことはないわけであり、三者会談に対しては批判的な意見を持ちつつも、それを原告や守る会の底辺の人たちに直接訴えることはやはり避けるべきである、絶対にしてはならないという一線を守って守る会のそれなりの組織の中で決定されたことに対しては、私たちとして従うべきであるということは、終始一貫して守ってきた。(以下略)」

 ここで本人が述べているように「三者会談に対して批判的な意見を持つ」人が何故それに「賭け」たり「水面下で動き続け」たりするのか、著者の考えがわからない。それにしても三者会談について、同一人物のとった行動が著書によっては正反対に分かれて記述されているのが不思議である。
 9については、何をもって「事業を拡大し、充実させている」といっているのか不明である。予算はひかり協会発足当時と現在を比較すると約三倍に拡大しているが、それが内容の充実とは結び付いていない。救済の憲法ともいえる恒久対策案からは後退に次ぐ後退であり、現状を検討せずに無責任なことを書いているとしか言いようがない。

 10については、直接NHK出版には訂正を申し入れはしなかった。しかし正確な表現ではない。この文章はひかり協会について述べているが、協会は財団法人の組織であり「救済施設」ではない。施設という場合普通は建築物などの設備などを意味する。ひかり協会には恒久対策案で建設するとされた、被害者の収容施設も病院もない。「救済施設」と呼べるものはなにもないのに、この名前はなにを意味しているのか分からない。

 私の申し入れにたいして「至急取り調べのうえ」と言いながら、回答が来たのは約二週間後の八月七日のことだった。

 「お問い合わせの件、大変遅くなりましたこと、誠に申し訳ございません。 本書は番組『NHKスペシャル 史上最大の不良債権回収』、そして『ETV特集 シリーズ弁護士・中坊公平』をベースに、新たな取材を加えて記したものです。執筆にあたりましては、中坊公平氏自身に取材し、証言をいただき、さらに内容に関しても目を通していただきました。また、併行して関係各位に取材をし、助言や資料のご提供をいただきました。

 今回、能瀬様から頂いた貴重なアドバイスの内容につきまして、そのうち「死者には一律五〇万円、その他は症状に応じての賠償も行われてきた」の記述については、ご指摘通り、「死者には二五万円、その他の被害者は一律一万円となっている」が正しい内容でした。ご指摘、まことにありがとうございました。次回、重版の際に訂正させて頂きます。その他の点につきましては、内容をいま一度精査のうえ、明らかな事実誤認がある場合には訂正いたします所存でございます。(以下略)」

 私の指摘にたいして一か所の誤りを認めただけで、その後に返事がないということは、それ以外は訂正するつもりは無いのであろう。しかも、「次回重版の際には…」と但し書きをつけているとは、どういうことだろうか。
  私は、このような書籍の重版など望まないが、要するに誤った事実を大量に垂れ流し、その修正は「事実上出来ませんよ」と慇懃無礼に述べているだけにしか思えない。
 それにしても、二度のファックスはいずれも第二出版部長である長岡信孝氏からのものであった。私は著者である今井彰・首藤圭子氏宛てに出しているのに、両氏からは何の返答もないのはどういうことであろうか。私の手紙に異論があれば、堂々と反論すればいいのに、黙殺しているのは失礼な対応である。権威者、権力者には卑屈になって事実でも歪曲するが、無名のものにはその裏返しの態度を平気でとるとしか思えない。    

 手紙の中で私は資料として書名を挙げて、それらを見れば正確な事実がわかると書いた。また三者会談について中坊氏がもし守る会の要請で「水面下」で行動していたなら、故岡崎哲夫氏が遺した資料を調査すればすぐ分かると書いた。しかし夫人の岡崎幸子さんに尋ねてみるとNHK出版からは何の問い合わせもないとのことであった。

 それらのことから判断すると、事実が判明すると『野戦の指揮官・中坊公平』という題名は不適当になる。著者が描くこの本の構図は、不買運動も三者会談も中坊氏が指揮したことにしなくてはならないのだ。

4. NHK本の悪い影響

 著者は中坊氏に関する最初の本を出版したと自慢げだが、それより不正確な記述が後々まで影響していることを恥じるべきである。中坊氏の偉大な人格に「傾斜」するのもいいが、それによってジャーナリストとしての目まで曇ってしまってはなさけない。事実まで歪曲しても平気なのだから、もともとこの著者にそんな目を要求するほうが無理かもしれない。 

  その後に出版された中坊氏に関する他の本を読んでみると、私がこの本であげたのと同じ箇所に間違いが多いのに気がつく。「中坊公平著」となっていても、聞き書きを編集者が文章化したのがほとんどのようだ。なにしろ約五年間に三十冊もの「中坊本」が出ているのだから、本人が書いていては間に合わないだろう。多くの出版社が「中坊ブーム」に乗り遅れまいと、聞き書きをすぐ本にするという、安直な金儲けのやり方を競った。
 森永ヒ素ミルク中毒事件に関しては言えば、二十数年前の中坊氏の経験である。その記憶が絶対に正確で信用に足るかと言えば、中坊氏の卓越した能力をもってしてもそうとは言い切れない。そのいい例が対談にあらわれている。二人の発言をそのまま本にしたと思われる『裁かれるのは誰か』(東洋経済新報社刊 一九九八、一、一発行)にも多くの誤りが見られる。この本については、あとからその箇所を指摘するつもりだ。

 「NHK本」と同じ誤りをおかしているのが『中坊公平・私の事件簿』中坊公平著・集英社新書(二〇〇〇、二、二二第一刷発行)である。

 「そして中坊は、法廷戦術と並行して、法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である」(NHK出版本)

 「中坊は何度も厚生省を尋ねた。被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた」(NHK出版本)

 「私は裁判と並行して不買(売)運動を進めたりしながら、国(厚生省)森永、被害者の三者会談を重ねるという策をとりました」(集英新書) 
 集英社新書は中坊公平著となっているが、読んでみれば聞き書きであることはすぐ分かる。文章化の時にNHK本を参考にしたものと思われる。要するに、NHK本のとばっちりを受けた格好となっており、当時の「中坊ブーム」の熱狂に巻き込まれた感がある。
 その他にも中坊氏に弁護団長を依頼してきた青年法律家協会員が
 「七三年一月、その伊多波さんが、私のところへ来られたのです。四年間自分たちでやって来た……」(五三ページ)は第一章のあやまりの4で指摘したことであり、年号を西暦にしただけである。

 その他「同年(六九年=能瀬注)一〇月一九日の朝日新聞で報じられたことが契機となり、「森永ミルク中毒の子供を守る会」が結成され、森永乳業と交渉が重ねられるようになった。」(五二ページ)も誤りである。 守る会が結成されたのは事件の翌年五六年(昭和三一年六月)であり、その後も解散せず少数の会員ながら活動を継続してきた。その基盤があったから「十四年目の訪問」報道の際に、自主検診データが裏付けになったことは既に述べたとおりである。いってみれば、守る会が岡山だけででも活動をしていなかったら、「十四年目の訪問」は生れなかったといえる。 さらに「結局、私は、三者会談で決まったいくつかの対策の内容や被害の因果関係を、口頭弁論において国や森永に一つ一つ認めさせ、裁判所の公式記録にとどめました。そして、そのうえで提訴を取り下げました。同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました」(五八ページ)も正確ではない。

 裁判の主体は守る会であり、中坊氏は弁護士として依頼をうけてやっているのである。提訴も取下げも決定するのは守る会であり、弁護士ではない。森永製品の不買運動を呼び掛けたのは、被害者の親でつくる守る会である。昭和四九年五月二四日「不買運動終結声明」を出して収束させたのも守る会である。このように本来「守る会」と書くべきところを、「私」あるいは「中坊」と書いているからすべて中坊氏の行為と誤解されることになる。著者あるいは聞き書きをした人は、有名になった頃の中坊氏のイメージでもって勝手にそう理解したのかも知れない。

 当時の中坊氏でもって、過去の彼を都合よく推測している。ほとんどの著書の中で中坊氏は、森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護をしたことで生き方が変わったと書いている。そのことを忘れて「中坊=指揮官」と書くことで、守る会の主体性を無視して、中坊氏に引き回された印象をあたえる。それまで中坊氏は大衆運動とは無関係で、父親に進められて弁護を引受けたと述べている。この本で急に被害者運動の指揮官にでっち上げられた。 そのためそそかっしい評論家には、つぎの新聞記事のような読まれかたにもなり、事実に反することが広がる。これは二〇〇一年一月二一日の朝日新聞読書欄、「ベストセラー快読」に載った記事である。

 「ヒーローは一夜で生れず」との三段見出しで「裁判の目的は被害者救済と企業と国に加害責任を認めさせること。それを勝ち取るために裁判だけでなく不買(売)運動を組織し、さらに国と森永と被害者の三者会談を重ねるという方法をとった。」とまるで中坊氏が対森永闘争の全指揮をとったような読まれかたになっている。

 前にも引用した『金ではなく鉄として』と『中坊公平・私の事件簿』はどちらも「中坊公平著」となっている。しかし三者会談については全く逆のことが書いてある。『金ではなく鉄として』では三者会談が弁護団にとっては「寝耳に水」であったことなのに、『中坊公平・私の事件簿』では中坊氏がそういう「策をとった」ことになってしまっている。

 さらに『中坊公平・私の事件簿』ではすぐ三行あとには「自殺まで考えた」という見出しがある。なんのことかと読んでみると、三者会談や裁判を巡って守る会との間に溝ができ弁護団全員の解任を考えていると、守る会幹部にいわれたとある。それにショックを受けた中坊氏は自殺まで考えたというのである。

 それほど弁護団にたいする不信感があるのに、守る会が中坊氏に指揮を任すわけはないのである。この本の一ページほどのあいだにもこのような矛盾したことが書かれていて、中坊氏の「策」で守る会が動いていたわけではないことが分かる。それでもそのすぐ次ぎのページでは「私は……そして、そのうえで提訴を取り下げました。同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました。」と書くのだから、支離滅裂である。

 どうしてこのような事実に基づかないことが書かれるのかといえば、中坊氏の記憶が正確ではないことによる。文章化するに際して、話された内容を点検して資料と比較してみる作業を怠っているからだと、私は推測する。その責任は著者としての中坊氏と聞き書きをした編集者にあるのは勿論である。このような不良品を読者に紹介するにために、内容を正確に読まずに提灯記事を書いた批評家も責められる。

 なぜ私が中坊氏の記憶が正確ではないかと言えば、次にあげる対談集での彼の発言に誤りが多いからである。この本も彼の発言を検証もしないでそのまま文章化したのであろう。対談だからといって、発言内容が不正確なままでは許されない。

5. 「中坊ブーム」に便乗して

 私は今年の八月一四日に東洋経済新報社編集部へつぎのようなファックスを送った。その全文を次に紹介する。

「 前略 貴社発行の『裁かれるのは誰か』(一九九八、一、一発行)を拝見しました。その中で森永ヒ素ミルク中毒事件に関する中坊氏の発言に多くの事実誤認を発見し、是非事実関係を調査され訂正されることを望み拙文をしたためた次第です。中坊氏の発言とはいえ、間違いは間違いであり、そのまま放置しておかれますれば、以後この著書内容を真実として通用することをおそれます。

 第一は八〇ページの「昭和三〇年八月二五日のことでした。岡山大学法医学教室がその事実を発見する」です。正しくは八月二三日です。

 第二は同ページの「そのときすでに、厚生省の調査によっても、一万二〇〇〇人余りの人がすでに砒素中毒にかかっておって、百二十何名の赤ちゃんが死亡……」は誤りです。その年の一二月九日現在で厚生省が確認している数字は死者が一一三人、患者一一八九一人です。

 第三は八一ページの「そこで砒素中毒の診断基準、治療基準というものをつくる。そして砒素中毒に効くというバル注射などを勧めた」は誤り。ただしくはバルは砒素中毒ということが判明した八月二三日ごろから、岡大医学部の浜本教授が治療法として勧めたのです。

 第四は同ページ「死者で二〇万円ぐらい」は正しくは二五万円です。

 第五は八二ページ「昭和四四年に堺の保健婦さんが自分が管理している、いわゆる精神薄弱児の中に」は「昭和四三年ころ大阪の養護学校教諭が自分の勤務している学校の中に」です。

 第六は「厚生省は名簿は絶対見せない」は誤り、この時は名簿を請求してはいない。名簿はもっていたので、べつのこととかんちがい。

 第七は「三六人の子」は「五〇人」

 第八は一〇〇ページの「ある女性の厚生大臣の自宅へ行った。ところが逆に川本さんと同じように、これも捕まえられるんですわ」は誤り。厚生大臣に面会して直接陳情したが、その後に何等の対策も講じられなかった。 以上の誤りは次の著書で正確な事実が分かる。『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』岡山県(一九五七、一〇、一発行)『森永ミルク中毒事件と裁判』ミネルバ書房(一九七五、一二、二〇)『砒素ミルク1』森永告発(1971、六、一〇)など。            草々」

 この本で中坊氏の対談の相手をしているのは錦織淳氏である。対談上手が相手の場合、文章として書かれたものとは、また別の面白さが引き出されることはよくある。話し放しのようでも意外と事実関係の検証や校正に、時間を掛けていることを「あとがき」で知って驚くこともある。対談と言えども、通常、それくらい発言の正確さを期することに神経を使っているものだ。

 ところが、『裁かれるのは誰か』の場合、中坊氏には残念ながらそのかけらも感じられない。ご自身が弁護団長を務めた裁判での証言くらい、正確に調べて言ってもらいたいものだ。裁判後に出版された『森永ミルク中毒事件と裁判』は弁護団の編集だから、持っていないことはない筈だ。私が指摘した誤りの五、六、七はこの本に養護教諭の証言として掲載されている。それについては次の『中坊公平の闘い』で取り上げるのでここでは省略する。 その他の誤りのうち事実関係を補足して記述すれば、第二の「そのときすでに」の「そのとき」とは八月二四日のことで、森永ミルクの中からヒ素が検出されたと発表された日のことである。混乱をきわめていた状況では、被害者の実数把握は不可能であり、この数字も誤りである。     第三については事件発生の年の一〇月九日、西沢阪大小児科教授を会頭にした委員会「六人委員会」で決定された。発表された「治癒判定基準」」でほとんどの患者が治癒と判定される大雑把な基準であった。これによってほとんどの患者が退院し、治療費は自己負担になった。

 それと同時に発表された「治療指針」には「今回の中毒患者については、患者は夫々適切と思われる治療により殆ど治癒している。然ながらその治療法は極めて多岐で而も各自に理論的根拠によって処理せられたものと解せられるので本委員会において、結論を出すことは、非常に困難である」(『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』二九六ページ)とあり「バル注射……」を勧めることは発表されてない。

 バルについては次のように書かれている。「BALは第二次大戦勃発とともに発泡性の砒素性毒ガスの解毒剤に関する強力な研究が主に英国で進められた結果、この目的に最も有効なものとして発見された化合物である。多量の金属が永く蓄積する慢性毒中毒症の場合における効果は急性中毒の場合にくらべ不顕著である。」(前掲書二四二ページ)

 急性のヒ素中毒にバルを使用したが、それから一か月以上経過して問題はヒ素中毒の後遺症が心配されている時期にバルを勧めるわけはない。

 その他第四は既述のとおりで、第八は対談者の錦織氏が水俣病の川本さんが逮捕されたことを述べ、中坊氏がそれに関連して発言したものだ。
 事件が決着後、岡山県のみで守る会が組織され、細々と活動してきた。この事件は以後マスコミから意図的に無視され、社会に訴える手段を失った。その中で唯一つ、毎年開催される「日本母親大会」が発言の場であった。 昭和三五年の大会は東京で開催され、守る会からは吉房亀子さんら二人が参加して後遺症の存在を訴えた。私は吉房さんの日記を『砒素ミルク1』に掲載させていただいた。その中から八月二三、二四日を一部引用する。

「東京駅に行くと十時過ぎで今から行く所もなく四人は四千何百円も出して泊まることはできないので目黒警察署に一泊保護してもらい、八月二四日の午前五時に警察署を出て等々力町の大野勇(森永社長、能瀬注)さん方に行く。大野夫人に会って一言話し、お茶代わりに森永牛乳を一本ずつ戴いて八時にこの家を出て田町の本社に行くも面接できず正午ごろやっと社長代理に中須さん、池谷さん、松本さんが来て私と浅野さんは久方ぶりに米食をした。(中略)二四日に森永社長は面接してくれないので、私達は高田なほ子先生(参議院議員、能瀬注)の取次にて厚生大臣に直接陳情に行った所すぐ面会して私の話すことをよく聞いてくださいました。」

 この日記は『砒素ミルク1』以外では公表されてはいない。中坊氏はこれを読んで、記憶に残っていたのではないだろうか。それにしても事実を確かめもせずに、よく自分に都合のいいようにくっつけたものである。


6.「被害者は加害企業に感謝している」?…
                   公害被害者の尊厳を踏みにじる凶悪な嘘 
  2014年追記


 『野戦の指揮官・中坊公平』(文庫本)(平成1年1月25日発行)の103ページでは「森永裁判当時の森永乳業社長が亡くなったとき、被害者の親たちは、遺された夫人に社長あての感謝状を送る。」とある。

 しかし、他方、『諸君』(2002年5月号)での菊地孝生との対談157Pでは「ひかり協会が主催して大野社長に感謝する会を開いたんです」とある。


 NHK出版の中坊本では、これが彼の驚くべき個人的主張であるところの 「被害者は今では加害企業に感謝している」を補強する「証拠」のように配置されている。彼は、その後もこの「行事」について、しつこく雑誌で触れている。ところが、同一人物・中坊氏が語る「行事」の内容が、媒体ごとに別物になっているのだ。

 そもそもこのような「行事」がオフィシャルに実施された事実はあるのだろうか?ちなみに、「森永裁判当時の森永乳業社長」の逝去は昭和59年(1984年)だ。不思議なことに、この「公式行事」は、ひかり協会の「10年のあゆみ」「30年のあゆみ」にも記載されていない。「守る会」の公文書にも存在しない。つまりこの「行事」は、少なくとも公文書からは確認されない。

 一体、この信じ難い「被害者合意のもとに公式に行われたとする行事」とはどこに存在するのだろうか?被害者とその遺族が、当時、こんな公式行事の開催を知っていたら、おそらく憤慨した事だろう。
 もちろん、このような言説を流布することで利益を得る者は誰か?は、押して知るべしだ。

 NHK出版は、「加害企業に被害者は感謝している」などという言説流布の先陣をはった事に関して、死亡乳児131人(事件発生後1年以内)、1万2159人の被害者、そして、2013年までに、もがき苦しみながら死亡したであろう認定被害者1170名の御霊とその声なき声に対して、きちんと答える責任があろう。


【了】 

不見識の極みというべき中坊公平氏 週刊金曜日19991001




歴史の歪曲は、人間の尊厳を脅かす蛮行。

http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-propaganda02.htm

事件後半世紀もたって、森永乳業顧問(2002年時点)の菊池孝夫氏が
「ヒ素中毒による後遺症は中間管理職が握りつぶしていたから、上部の者は知らなかった」
などと受け取れる発言を大手雑誌で流布した。
 このあまりに大きなウソは、森永ヒ素ミルク中毒事件の事件史全体を捻じ曲げる重大な歴史偽造の試みである。その後、本人は訂正もしていないようだ。被害者圧殺の暴虐の歴史を少しでも知る人、歴史を重んずる人が問題視するのは当然だ。未だにこのような不正なデマがごく最近になって原因企業幹部によって公に流され続けていることには驚きを隠せない。加えて、この企業の中間管理職が、このような公然たる責任転嫁を受けていても、黙って口を閉ざして現状は、情けないにもほどがあるし、「管理者としての矜持」を見せる度量もないとは、全く時代遅れの企業風土だ。
 しかし、森永は大量の乳児を殺害しておきながら、なぜ未だにこのような傲慢な態度を続けられるのだろうか。その背景に、創業当時から軍部に取り入り、産業報国の旗を振り、青少年にチョコレートなどの菓子を通じて軍国主義の刷り込みを率先しておこない、政界と癒着し続けてきた企業グループの姿勢からくる傲慢さを指摘する人もいる。だが、理由は何であれ、このような歴史偽造は許されない。このような「もみ手ごますり」で企業トップにオベンチャラを使い、トップの責任を隠蔽し、自社のもっとも恥ずべき犯罪の本質を曖昧にする「感情支配型」の経営姿勢に猛省を求めたい。政界に野心あり過ぎの森永と安部政権

左右は利権が絡むと見事に癒着する。
【参考資料】森永事件解説ポスター 民医連なるもの 弁護士の言説  弁護団内部の売名主義への批判  被害者団体の本末転倒 森永ヒ素ミルク中毒事件50年目のレポート 貧困ビジネスの実態 被害者団体のあり方を批判する市民を恫喝した民主集中制が裁判で有罪判決 歴史の偽造を企む職業的プロパガンダ  民主集中制という麻薬的党派性向
意見の異なる会員の言論弾圧をして何が悪い!と公式に開き直る民主集中制

「弁護士」との対談で登場した巨大な嘘
ヒ素中毒による後遺症は中間管理職が握りつぶしていたから、
上部の者は知らなかった???

(森永乳業顧問-2002年-の菊池孝生氏が、テレビや、弁護士・中坊公平氏─当時─との対談で発言していること。)
 中坊・菊地対談は2002年の『諸君』5月号に掲載されています。その時の菊地氏の肩書は「森永乳業顧問」とあります。ですから、個人としての発言ではないと認識しています。その中で問題となる個所を再録します。
 162頁下段で「菊地 (略)『韓非子』に「知の難きに非ず、知に処するは則ち難し」とありますが、知恵はいくらでも出てくる。それをどう運用するかがいちばん難しいんです。現場を知りたいという社長の真意を、中間管理職がどれだけ汲み取れるか。不祥事があった場合、もちろん社長も悪いけど、社長の耳に心地よい話だけを上げてくる中間管理職がいちばん悪いと思います。実は森永の場合、昭和30年に事件がおきてから裁判になるまで、14年間にダンボール三箱分の苦情が届いていたんですよ。つまり、事件は「14年目の訪問」で再燃したのではなく、ずっと続いていたんです。それを中間管理職が、社内の思惑で止めていた。」
  ────────────────────────────
以下に、このウソを証明する一次文書と資料類を17項目に亘り掲載します。
余りに深刻な公害の責任を最も深く自覚すべき幹部が、いまどき、こんな見え透いた「嘘」を雑誌で公然と流布して良いのでしょうか? しかも事件発生後1年以内に131人の乳児を死に至らしめておいて、未だに「上場企業」ですぞ。その傲慢さから来るのかどうか、なにか大きな勘違いをしている(現在に至るまでの認定被害者の死者は最低でも1,170名 -2013.10現在-)

1.
最初から、被害者組織の解散を求め、深く関与していた森永重役陣

No.849 菊地孝生森永顧問の話は「大ウソ」─

 森永特使・梅原睦氏は守る会結成後に、守る会の今後を危険視して森永から派遣されて岡山へ度々やってきて、解散などをもとめていました。彼から某氏に送られた手紙です。

…一昨日も上京しましたが、矢張り重役陣の中にも一応石橋をたたいているものもないではありません。これと言うのもジックリ膝を交えて話せる機会もなし、過去の歴史を辿っても疑念を抱かれるのも当然のこと。そうした方ともこの際、理解を求めるためにも小生も思っているままを話して了解できるかどうかわかりませんが来たつもりです。(以下略)─昭和32年9月18日─

…何か将来を保証する意思表示がほしいと希望することも御理解願いたい。社内重役陣も個々の考えをもっていることを考慮されたい。(略)─昭和32年9月13日─
 これ、つまり森永にとって「将来を保証する意思表示がほしい」とは「守る会」を解散することを意味している。その「意思表示」を求めている意味にとれる。
 これまでに、別の渉外部の部員が岡山で後遺症治療について、何度も守る会の会員と話をしていて、このことは梅原氏も了解ずみです。だから、重役陣と話すときには、そのことがでないはずはない。

2.森永は重役の意思で、被害者団体無視→各個撃破→ボス交渉→抹殺。
No.850 菊地孝生森永顧問の話は「大ウソ」2─

 これは岡崎哲夫氏から黒川氏に宛てられた文書「森永の謀略とそれに対する本会の行動方針について」(昭和32年7月14日)です。
 各会員からの報告を集約した結果。1.松本渉外課長の個人訪問は本会無視、団結破壊の意図。2.訪問結果「納得した」会員は皆無。3.回答期日延期し「岡山は他県並みで不可、重役と相談」後の回答は本会抹殺、各個撃破となる。七海重役が黒川氏に会談申入れは、右路線を実現せんため。組織を無視するボス交渉の意図。4.本会の任務は組織の存続発展。5.医学者の見解は砒素の影響に悲観楽観の両論、楽観論は権力機構の座にいるもの、その他は悲観論堅持。6.我々の要求は目新しくなく森永に約束の履行を要求するもの。

3.「中間管理職が握りつぶしていた」という言説は「意識的に流布」されている悪質なウソ。
No.851 菊地孝生顧問の話は「大ウソ」3
 昭和32年8月15日綱島長吉氏(事件翌年の守る会設立メンバーの一人)が某氏に宛てた手紙。
 (略)11日調印(注 守る会と森永が被害者治療について契約書を交わす)後梅原氏(注 特命大使)の意見は本社大野氏(注 社長)の意見として医師が積極的に研究に没頭と能力あれば、本社として協力を惜しまないと言う。梅原氏は本社の裁決が梅原案と磯辺・松本案(注 渉外課員)の調整において梅原発言に傾き、磯辺氏の意識的反抗を感じるので考慮してほしい。平田氏(注 訴訟派)ら旧同盟の方々に今度の協定書を話し、子供が治療されることが実際的に望ましいので、訴訟に追い込んだ罪滅ぼしとして努力したい。
 (感想)梅原氏は自分の功績を自慢しているようにもとれる。守る会が岡山県内の会員の治療費の支払いを求めて交渉しているので、本社の上層部が知らないはずがない。社長の名前も出ているのであるから、菊地氏が言っていることは「意識的なウソ」であり、悪質極まりない。

4.森永重役、「守る会は、不逞なやから」との見解。懐柔策として後遺症との関連に関して治療費を払うとの見解も。

No.853 菊地孝生顧問の話は「大ウソ」4─

 昭和32年9月3日に森永七海重役と守る会役員が会見した時のメモが見つかる。七海氏の話では「会社側には二つの意見がある。一つは新協定(注1)については柔軟に運用するというもの。二つ目は守る会は不逞な意図をもった集団で、無条件で解散するまでは信用できないというもの。これは渉外課主流の意見だという。」このような話が七海氏の口から語られた。

(注1)新協定とは、岡山県内において、任意の医師の診察を受けヒ素ミルクとの関連性について疑いがあると診定された者に限り、治療費、交通費、入院に要する実費を森永が負担するというもの。

 七海氏は守る会が後遺症の治療を求めていることを知っていたことは疑いがない。菊地氏は七海重役も「中間管理職」の中に入れているのだろうか。後遺症を上層部は知らなかった、中間管理職が握り潰したというからには、大野社長も№851では知っていたことになり、森永社員は社長も重役も中間管理職になってしまう。

5.大手マスコミに陰湿な圧力をかけ続けた森永乳業の重役

No.856 菊地孝生顧問の話は「大ウソ」5─

昭和35年11月8日付、綱島長吉氏から岡崎哲夫氏宛ての手紙

1.福祉新聞の森氏の意見了解、2.朝日の角川氏の意見求められたらいかが。①森永七海氏が三回に亘り同編集部を訪問し、手きびしい態度で接されたので掲載されるとたたかれるかも。②角川氏も七海氏を取材している。③七海氏は別方面で掲載禁止の手段は可能であったが、取材現場の空気悪化を憂慮して成り行きまかせにしたと私にはなす。赤松部長が直接吉房、浅野を訪問しているのは火消しを意味。5.磯部君が突然岡山へ来たのは朝日不掲載が連絡された母親大会事務局の態度だけが問題になり、県衛生部を通じて赤松氏へ働きかけする任務か。赤松氏を通じて吉房、浅野説得方法打診か。

(赤松部長が「火消し」に回ったというのは、森永への治療費などの要求を抑えることや、県庁で座り込みをすることなどを中止させる意味ではないかと思います。日教組の婦人部も「日本母親大会」の主催団体の一員ですが、当時は県庁も愛育委員会も保健所もみな森永の味方ですから、「要求の火の手」が上がったのを消すということでしょう。)

 福祉新聞─日本母親大会で守る会の吉房、浅野の両氏がヒ素ミルク中毒の後遺症を訴えた。それを報道したのは「福祉新聞」、「アサヒ芸能」だけだった。森氏は福祉新聞の記者。
 朝日の角川氏─週刊朝日の記者、母親大会後岡山を訪れ関係者の取材をして原稿を書きながら、なぜか掲載中止になる。
 赤松部長─日教組の岡山県婦人部長。磯部─森永渉外部

6.後遺症の存在など先刻承知の上で、抹殺努力を続けた森永乳業の重役
No.858 菊地孝生顧問の話は「大ウソ」6─

昭和35年10月12日 森永乳業株式会社大野勇殿「御通知」 森永ミルク中毒のこどもを守る会理事長岩月祝一
「福祉新聞第179号所載の記事で「森永事実を否定」の個所で貴社七海久氏と松本鷹知氏の両氏の談話は、新聞紙の公的性格に鑑み社会的影響が甚大であり、当該記事が完全に真実であるか否か責任ある回答を望む。」

 福祉新聞179号は日本母親大会で守る会吉房、浅野両氏が「森永ヒ素ミルク中毒被害児に後遺症」を訴えたことを報道している。取材記者によれば、守る会の言い分と森永の言い分を公平に報道するために両者から取材したという。だから森永の七海重役は後遺症の存在を知っていたことになる。松本鷹知氏は渉外課長だから、岡山の守る会とも接触があり、医師の診断書で後遺症の疑いがあることは、先刻承知していたはずだ。

7.被害者が、1960年の段階で、すでに社長代理に直訴しているのに、「中間管理職が握りつぶした」、という虚言を2002年、雑誌で語り始めた森永乳業顧問
No.867 森永・菊地孝生顧問の「大ウソ」をあばく №1─

 昭和35年1月28日福士俊子氏(東京在住・重症被害者母)の手紙
 東京行動をより有意義にするため一案あり。以前に報告した東京新聞の社会部記者がこの事件に興味をいだき、当時(3年前)森永本社へ行き重役とのインタビューに成功したが、徳島裁判の判決まではと、新聞社でストップになり記事は陽の目を見なかった。時期到来すればとのことで、東京行動日はその「時期」と思い、日時確定し次第新聞に報道してもらったらどうか。

 東京行動とは日本母親大会に参加すること。大会が終了後の8月24日午後に吉房さん夫妻と岩月、浅野さんが森永社長本宅に面会を求めて行っている。社長は不在で夫人と話している。翌日大野勇氏宅に行きここでも大野氏は不在で夫人と話している。これは吉房亀子さんの日記にかいてある。(昭和35年8月24日)
 当時大野勇氏はヒ素ミルク事件の責任を取って社長を辞任していた。大野氏と会えなかったので森永本社へ行き、社長代理の者とあっている。そこで訴えることといったら「後遺症」のこと以外に何があるだろう。

8.雑誌「アサヒ芸能」への森永の圧力

No.870 森永・菊地孝生顧問の「大ウソ」をあばく №2─

昭和35年9月25日『アサヒ芸能』記者栃窪宏男→岡崎哲夫への「手紙」を掲載します。

先日、突然取材にあがりお世話になりました。帰京後早速森永本社を訪ね、総務部長と話し合いました。原稿提出後にかなり圧力がかかって驚きましたが、一応3頁のページを割くことができました。(後略)

森永の総務部長は森永恒三郎氏で、森永本社と関係があるらしい。総務部長と言えば、「中間管理職」とはいえないでしょう。『アサヒ芸能』は圧力にめげす吉房、浅野両氏が「日本母親大会」で後遺症の訴えをしたことを掲載したが、『週刊朝日』は岡山まできて取材はしたが、なぜか掲載は見送った。



9.関西テレビでの発言も大ウソ
No.871 森永・菊地孝生顧問の「大ウソ」をあばく №3─

 関西テレビ制作「ザ・ドキュメント『恩讐の彼方』」(2007年11月27日放映)で菊地孝生氏の発言、「丸山教授の発表を新聞で見た時には、これはしまったと思ったですね。検診を続けておけば、被害の拡散は防げたとおもったですね。」

 これも「大ウソ」。
 守る会(岡山にしかなかった。大阪には「守る会設立準備会」は岡山のよびかけでできたが、その後立ち消え)は精密検診を求めて、森永と交渉をつづけていた。守る会の要求で森永は岡山では検診費用、治療費を負担したが、守る会の解散を要求。岡山の患者に後遺症があることは、他府県でもあることが当然予想されることである。
 この菊地氏の発言「しまった」は被害者からなんら検診の要求がなかったので、検診をしなかったとうけとれるニュアンスがある。 関西テレビは、これらの登場人物の発言などについて「ウラ」をとらずに制作している。これは「ドキュメント」とは言えない。

10. 被害者の親の転職をも妨害し、被害者家族の困窮と崩壊を企図。

【昭和37年8月15日守る会関係者への綱島長吉氏からの手紙】
 突然上京し、清水(静岡県)へ駐在していたが、来月清水を引き上げ予定。帰郷か名古屋へ滞在か未定。以下極秘、実は日水(日本水産)副社長(綱島氏の大学同窓生)の招請で、八王子(東京都)の新設工場の舎監として寮管理の仕事をやるつもりで上京後、勤務部から提出の意見書は、「森永事件関係者で同業食品界に打撃を与えた張本人を如何なる名目でも留まらせることは同業の交誼に反するし、工員と直接関連を有する人事関係の最前線に据えることは危険。興信所その他の情報で明らか。」

 副社長は、もし自分が同じ立場になれば、綱島氏と同様の行動をとるだろうと言明。以上のような事情で清水で待避。

 この背景には社長派と副社長派の勢力争いあり。社長は元森永の重役であったことが決定的要素と思う。(以下略)

 社長が綱島氏らが岡山で守る会を結成して、粘りつよく後遺症の存在を訴え続けていたことを知っていたからこそ、排除しようとしたことは明白である。

 自分たちのおかした罪を棚に上げて、子供の将来を心配して運動を続ける親に対して「危険人物」という烙印を押すような人物が、会社のトップにいる。これこそ会社にとっても、社会にとってもキケン信号だ。


11.森永は被害者に無条件降伏のみを求める。No.896 森永・菊地孝生のウソをあばく(続)
【以下は、守る会が昭和32年-1957-9月6日に会員向けに送った文書の中に書かれている内容。この項4を示す原文】

 昭和32年9月3日、森永七海重役と本会(岡山県森永ミルク中毒のこどもを守る会)が会見の結果を報告します。森永社内に二つの対立意見がある。一つは新協定(守る会と森永との間で、ヒ素ミルクによる後遺症との医者の診断があれば、治療費などを支払う)の柔軟運用。二つは守る会は不逞の企図をもっているので、無条件降伏(守る会の解散)までは信用できない。この意見は渉外課主流の意見である。

【大阪被災者の方への連絡】
今回、我々(岡山県森永ミルク中毒のこどもを守る会)と森永との間で新協定がが結ばれた。この覚書は他府県には公表しないでくれと森永から申入れがあった。大阪も守る会を結成したら、岡山が悪顔をうつのも覚悟の上で内容をお知らせする。(しかし大阪はその後守る会を結成しなかった。昭和32年9月11日連絡状から)

12.菊池氏からみると、森永乳業の重役は「中間管理職」?  No.897 森永・菊地孝生のウソをあばく(続々)

以前に報告済み、重複をお詫びする。
投稿者 :こだわり人間 2013年1月6日(日) 16:35
【昭和35年4月24日の黒川氏から岡崎氏へのハガキの内容】
19日に午前中一杯松本、磯部(森永渉外部)の両氏と話し大体の見通しをつけた。多分5月の飛び石連休頃に岡山で検診し、更に会談することとなろう。松本氏が26日に帰京して七海氏等と相談するとのことだ。

 菊地氏は、被害者の後遺症の存在を中間管理職が握り潰したと、中坊氏との『諸君』誌上での対談で公言している。事件後の35年にも岡山の守る会から、引き続き後遺症対策を求められていることを、重役の七海氏が知っていたことはこれで証明されている。

13.中間管理職もトップの意志のもとに動いていた証拠(当然でしょう)
【森永渉外課松本鷹知氏から岡崎哲夫氏への手紙】
 昨日突然黒川兄の訪問を得て知りました次第ですが、心からお喜び申します。貴兄と黒川兄上京前にお話し合いされたことについて伺い又私の考えも(これは会社の考えです)
誤解のないよう十分お伝えして御帰岡後には貴兄と御相談願うよう願ってありますが、同氏(黒川)も時間の都合上貴兄との会合が多少時間がかかるかもしれないと申して居られました。黒川兄からご報告がありましたらそれに基づいて、十分御検討いただけますれば、幸いと取り急ぎ御回報申し上げます。(昭和35年2月27日)
 
(注)これは被害者の検診費用などの支払いについて、森永の考えを黒川氏に述べ、守る会に伝言を頼んだことを手紙でしらせたものだ。
「私の考えは会社の考えだ」と言っていることからわかるように、中間管理職が勝手に動いていないことを述べている。ただそれなら文書にして渡せばいいものだが、それをしないところが森永のズルイやり口である。

14.森永乳業の常務取締役は、中間管理職? No.900 森永・菊地孝生のウソをあばく(続々々々)
投稿者 :こだわり人間 2013年1月8日(火) 15:13

【会員各位 重要通知(マル秘)】昭和35年5月24日
以下の各項は重要なので適当な配慮を要望する。(1)5月21日岡大検診結果(親の証言)、イ.A─脳の発育が3歳程度、薬品の与えすぎか。6月2日再検診治療法を考える。ロ.I─乳歯が駄目、今後一回通院義歯をいれる。ハ.Y─手術及び義歯は健康上差し支えなし。(2)過去の闘いの推移を顧みて、イ.検診結果積極的に検診、健康管理した子は回復、ロ.親の判断で処理すれば回復遅れ目立つ。ハ.常時積極的に医師と連絡をとり真剣になること必要。ニ.我々が医師を指定し受診すると、森永はその前後にその医師と会見し、医師は森永に不利な発言を回避する。真に正しい立場にいたのは倉敷中央病院の石田医師一人。
【株主各位 第22期定時株主総会決議御通知】昭和35年6月12日 新役員決定・取締役会長-森永太平、取締役社長-大野勇、常務取締役-萩原昌次、七海久、前取締役社長-大串松次は相談役に。

(今まで度々この欄に登場していた七海氏は常務取締役になった。席次から言えば森永の№4であり、中間管理職ではない。)

15.森永専務が岡山の県会議員の直接買収に動く No.901 森永・菊地孝生のウソをあばく(続々々々々)
投稿者 :こだわり人間 2013年1月12日(土) 9:17

45年3月30日夜、社会党本部で関係者協議、直後、森永岡山営業所から「森永専務」が谷村、岡本両氏に面会要請あり、断る。昭和45年7月31日の社会党(岡山)県議団と守る会研究班の三者会議。石田課長(県衛生部)を呼んで詰めた結果、8月1日県が開催を通知した「岡山県粉乳中毒調査委員会」は県衛生部長の急死で取りやめ。ところが8月3日~5日頃、森永専務が藤本剛平社会党県議に「手を引いて欲しい」旨申入れ、必要とあれば数百万円は出す」と言った。(8月8日付岡崎氏から某氏への手紙)

(注) 藤本県議は医師で「岡山県粉乳中毒調査委員会」(官製検診)のメンバーとして守る会が推薦していた。
------------------------------------
質疑応答
No.902 投稿者:ホワイト 2013年1月16日(水) 19:25
こだわり人間様
で、社会党は手を引き、共産党(民医連)は官製検診に参加したんですか?

No.903 ホワイトさんにお答えします
投稿者 :こだわり人間 2013年1月18日(金) 16:27
 藤本県議は委員に入っておりません。その理由が森永から金をもらったからか、どうかは知りません。
 民医連からは水落理、松岡健一、遠迫克己の三氏が入っています。その他守る会推薦で三村啓爾氏も入っています。民医連は守る会がおこなった自主検診の資料を当委員会に提出しています。これには守る会は反対していましたが、こっそり提出したようです。

 ところで、森永が安定剤に使った「第二リン酸ソーダ」使用について、森永臨時工・パートタイマー労働組合は「ヒ素ミルク中毒問題(不買運動)と我々の態度」(1973.2.20)で次のようにいっています。「工業用第二燐酸ソーダも局方や第一級ソーダも実質には違いはなく、小瓶に入っている局方試薬など買っていては製造に間に合わぬから木箱入りの工業用を買っていた」というのですが、この見方には真実の一片が隠されているようです。


16. No.904 森永・菊地孝生のウソをあばく(続々々々々々
投稿者 :こだわり人間 2013年1月22日(火) 12:05
【昭和52年(1977)11月30日冒頭の山口敏夫委員長の挨拶】
 事件解決のために厚生省が乗り出してから既に局長は4代目を迎えた。基本的には、国民の命と健康を守る立場にたって進められてきたとおもうが、関係者が一つのテーブルについてやってゆけるようになったのには、守る会の役員のみなさんの献身的な子供に対する愛情と団体に対する奉仕の精神があってのことで、局長をはじめみなさんにこのことを十分理解してほしい。大変むつかしい事案で皆さんの努力がなければ、いつ行き詰るか、崩壊するかわからない。……三者会談に参加の皆さんの熱意と努力が特に必要である。守る会の皆さんは報われることのない献身だとは思うがライフワークとしてとりくんで頂きたい。森永乳業は構造不況、円高の中苦しいだろうが、経営責任をもっている立場の方が頑張ってほしい。大野さんが「会社がつぶれるまでやる」といったので、守る会の皆さんに会わしたわけだが、今後もそのつもりでやってほしい。
厚生省としても国の実験的事業として必ず成功させねばならない。大所、高所に立ってやっていただきたい。

(注)山口敏夫衆議院議員は、厚生省の政務次官だったころに三者会談の呼びかけを森永と守る会にした。森永が企業責任を認めるということで、守る会も参加したという事情がある。その経緯について山口氏は述べている。「大野さん」とは大野勇森永乳業社長のことである。「国の実験的事業」だといっているが、現在の状況は国は責任を放棄しているのではないか。


17.事件当時の森永乳業の悪魔的態度
以下----
 綱島氏(守る会設立者の一人)の報告(昭和32年9月17日)によれば、梅原睦氏(森永渉外部)は「辞を低くして(注)お願いするように、松本鷹知(当時の森永渉外課長)に言ってくれ」と申し入れてきた。

 そこで辞を低くしてお願いしたら、
(森永側からの)守る会の解散を要求。会社の意を受けて会員を説得せよ、強引に押し切れとの要求はきわめて不徳義で(被害者側としては)
耐えられない。

 
(森永乳業)松本課長の(被害者側への)
申入れ、
A.守る会解散なら『事件史』の負債等も解散の名目で支払う。
B.解散無理ならその他の条件に応じず

 という。今までは岡崎、綱島が強硬で、黒川が温和な仲介を取るという形であった。今度は梅原氏の書簡(辞を低くしてお願いする)の意を体して卑屈な位、低くでた。

 森永乳業・松本氏は被害者側へ自殺を強いるような高踏的態度であった。
 今後は黒川は高飛車に出て「今ただちに守る会の解散を要求は極めて不自然不当で、頭を下げるものを踏みつける行為だ。会社の態度が一歩も引けないなら仲介はしないで反響を見る」と黒川はいう。

 (解説)これは、被害児のヒ素ミルク中毒後遺症、併発省の治療費を要求をしている守る会に対する森永の態度について、綱島氏が報告している文書である。いまだに森永は被害者の頭を踏みつけていることに変わりがない。
以上----

(注)「辞を低くする」とは、相手に腰を低くして丁寧にすること。/つまり、この文書は、加害企業・森永の中級管理職・梅原氏が、被害者団体に対して、「わが社の上司(森永乳業の松本氏)には腰を低くして丁寧な言葉をお使いさしあげながらお願いするように」と「適切なるアドバイス」を出している様子を示している。そして森永からはそのお返しとして「まるで自殺を強いるような」高飛車な要求が次から次へと出されてきた事実を淡々と報告している/これは、まるで、江戸時代の、いや更にその前の原始時代の発想だ。引用文には青字の補足説明と改行を入れた。

デジタルアーカイブコーナー
所収:森永告発刊「砒素ミルク」シリーズPDF
1-1, 1-2 2-1, 2-2 等をご参照

このページのトップヘ