こういう落書きがあふれる街になってもいいのでしょうか?01消去は他人まかせで、落書きをアートとはやし立てる無責任な人々

 バンクシーなる落書き犯が「正体不明の路上"芸術家"」などと一部メディアでもてはやされている。今回、これに食いついた東京都知事が都内公共物(防潮堤)にかかれた落書きと記念撮影をするなど、なんともはや…下品な騒動を巻き起こしている。一部メディアは落書きされた防潮扉を都が取り外したと書きながら、「本物かどうか調査にのりだす」と併記し、いかにも東京都が「落書きを財産として尊重」しているかのような印象を持たせるように書いた。だが、都の事務方は「安全上はずしただけだ。(マスコミ)が書きたいような表現でかくことは止められない」という旨を述べている。ネット言論を「匿名性ゆえフェイクまみれ」と批判することに余念がない一部メディアが、一転、匿名性に隠れた器物損壊の違法行為を興味本位で礼賛し始めた。

 繁忙期で騒動自体知らなかったが、落書き消しで共に汗を流してきた人々からの憤りにみちた声に押され、書くことにした。

ピエロと化した小池都知事と一部メディア

 都民の減災にとってきわめて重要な防潮堤への破損行為を喜んでいる都知事の軽薄で奇怪なパフォーマンスは、メディアとも一緒になって、地方都市にまで波及している。
 今度は、香川県高松市でバンクシー風の落書きが見つかったとか、神戸の西宮でも見つかった、などと面白半分のローカルニュースがかけめぐり、逆に全国配信されている。地方自治体までが、東京都の「右へならえ」だ。
 落書きを煽りたい向きは、「案の定ひっかかった!」と内心嬉々としているだろう。だが、都知事のTwitterには、憤る都民の抗議が寄せられ炎上している。「東京都はついに落書き行為を合法化したのですね」「そんなことをする暇があったら街にあふれる落書きを早く消してほしい」と…。そのとおり。小池東京都知事は器物損壊行為を日本で最初に合法化した知事となった。

 本来なら一笑に付されるか破壊行為として厳しく批判される落書き行為が、大人によって礼賛される怪現象を定期的に見せつけられる。

20年前、都市機能崩壊寸前のアメリカと日本

 落書き調査隊の活動を始めた17年前(2002年)も同じ状況だった。10代の青年は毅然として落書きに反対していたが、活動を始めた途端、30代以降の主に男性から「なぜ落書きを問題にするんだ」「落書きは反体制アートだ」といわんばかりの「批判」と揶揄を受けた。(いったん落書きを消し始めたらそういう「口撃」をうける現状は、いまだに変わらない。昨年も岡山で落書きを消したとたんに、バンクシーの落書き画像が送りつけられ一方的に「回答」を迫られ困惑させられた人がいる。)
 そのころ、米ニューヨークでは殺人事件で年間最大2千人以上の犠牲者が生まれ、街じゅうが落書きに埋め尽くされていた。落書きだらけの地下鉄に乗れば、襲われても自業自得といわれる時代だった。治安機能が麻痺し、新自由主義者が羽を伸ばしすぎてインフラ設備もぼろぼろ。そのなかで米国は落書き対策を皮切りにした防犯対策がようやく本格始動していた。(当時の落書き被害の想定額は各国でおそらく数千億円の規模になると思われる。)

崩壊しても面白がり続けていた日本

 ところが、日本は、真逆のクロスオーバーで、毎月どこかの雑誌が「ストリートアート特集」を組んでいるというありさまだった。それを真に受けて落書き犯が激増していたのが岡山と東京。岡山には落書き犯製造工場ともいうべき店舗があり、それらは市などの公的機関からの便宜も得て商売繁盛だった。落書きが全市を覆い、犯罪が激増。市民は360度の落書きに埋もれたまま、その状況に麻痺し、一方で、白昼強盗が多発するといったような「ゆで蛙」に陥っていた。
 それから17年、落書きを消し続けて、ようやく落書き発生が下火になりかけた三年ほど前から、またぞろ落書き賛美の傾向が復活し、今月に入ってから、またもや一部の "いい年をした大人たち" が率先して先祖がえりを果たそうとしている。

「落書きは残すことにしました」と高松市役所

 高松市はバンクシーもどきの落書きに対して、なんと…「鑑定」をするという。都知事同様、頭がおかしくなったとしか思えない。一方、一部メディアも明らかに犯罪を面白がっている。(ある全国紙のバンクシー礼賛特集キャンペーン記事は誰でも容易に閲覧できる。)
 「鑑定はするけど、落書きはやめてほしい」。支離滅裂だ。自治体が「ある雰囲気に呑まれ」て、法治の原則を捻じ曲げ、器物損壊行為を容認していることに対し、報道には批判的視点がない。(先の児相の体たらくをコテンパンに批判していた態度と大違いだ。)
 ある公共メディアは、「一応、落書きはいけないことだと言ってます」と弁解するが、この都知事や役所の奇怪な態度と、どれほどの差があるのか? 複数の自治体に電話をかけて事実関係を照会したが、高松市の担当課は、「この落書きは特に支障がないので残すことにしました」と意味不明の発言。
 他県は決して東京都や高松市役所の真似をしてはいけない。

落書き消しに取り組んできた市民・青少年にどう説明する?

 昨年の12月、岡山市内の小学生数十名と落書き消し活動をしたばかりだ。その子どもたちは、落書き犯は犯罪を長期にわたり続けたい愉快犯のため、検挙をさけるためワザと庶民の家や零細な店舗に集中攻撃する。これは弱い者いじめと同じで、私たちが消さなければ誰も消さないから、と寒いなか全身ペンキまみれになって奉仕活動をした。落書きを消すことは、被害者の心情によりそう疑似体験でもあり、他人の痛みを身近で感じ取れる体験だ。
 落書きは消す前に相当な段取りが必要だ。落書き調査(フィールド調査)をして街の実態を知り、正確なデータをつくり、方々に電話をして壁の所有者を特定し、オーナーに、いちから趣旨を説明して「消させてください」と許可をとる。落書きはよく駐車場の内壁にもかかれるが、これを消す場合、全ての駐車車両の持ち主の連絡先を探し出してチェックリスト化し、指定日時にどけてもらう大変な段取り作業が必須となる。十数人の契約者に数週間かけて漏れなく電話&訪問で合意を取りつけ、はじめて一箇所の落書きが消せるというケースがたくさんあるのだ。それから、自腹を切って資材を調達し、交通量のある道路上で安全に作業を進める段取りをする。
 これらの非常に難しい作業を十数年にわたって体験してきた子どもたちや市民に、この都知事や一部マスコミは、どんな説明をするのだろう。都庁や社屋の正面玄関に油性スプレーペンキを吹きかけられてみないとわからないのだろうか? もちろん最近の落書き犯は、メディアのお気に入りになるため、銀行やデパート、警察や役所といったターゲットには手を出さない。すぐにつかまるからだ。稀にそれをする場合は、あらかじめメディア露出を計算している場合だけだ。
 「覆面落書き」で手段を選ばず有名になった人間は、犯罪を犯しても誉めてあげますよ、ということか? そう、確かに今回、役所やメディアはこんなメッセージを社会に送った。

計算高いバンクシーの仲間たち

 バンクシーといえば、金持ちオークションで高値落札後に内部に仕込んだシュレーダーで「自己破壊」したニュースがある。(これを面白がる向きは、「自己破壊」が「自爆」と類語であることを知らないのだろう)
 ルサンチマンを煽るこの手のパフォーマンスには、すべからくマスコミが飛びついたが、これも今に始まったことではない。犯罪をみておもしろがる者や、芸術家気取りの落書き犯を持ち上げるメディア報道はたびたびあった。キースヘリングもバスキアも、価値を創造できないネタに困ったモダンアート界が奇をてらった「カネになる商材」として利用した。落書き犯は上昇志向だけは強烈だ。バンクシーはジャンキ-のイメージを隠しながら商業的マーケティングをしている。(社会を皮肉るのも、結局は、落書き行為を正当化するためのレトリックだ。シニカルな落書きを描いたら、途端に許され賛美されるのだから、正当な方法で社会批判をしなくてもいい。街じゅうを壊して回ってもいいことになる。非正規手段の採用もOK。悪魔なテロリストにも口実を与える。面倒くさいコミュニケーションを学ぶ必要はないということだ。)

市民やメディアを騙して喜ぶ落書き犯

 これと似た事例が、かつて「日本一の落書き県」といわれた地元、岡山にもある。2000年初頭、岡山市内で落書きが社会問題となり、七転八倒しながらも市民による落書き消去活動が始まったころ、ある若者が商店街の幹部に売り込みにきた。「僕は今の落書きはよくないと思う。それとは違う壁画をかきたいんだ」と。商店街からID カードまで発行してもらって壁画を描いていた。これも「落書き防止活動」とニュースになった。ところが、一ヶ月後に、彼は、小学生が落書きを消した壁に、再度、落書き(自分のイニシャル=タグ)を上書きしているところを逮捕された。彼は落書きの先頭を走っている常習犯だった。

   この岡山の「落書き防止条例」適用第一号の犯人は、検挙されても、市内に数千箇所以上もある自分の落書きを消すことは(できるにもかかわらず)遂にしなかった。彼の落書きを何年もかかって消し続けたのは多くの市民ボランティアだ。
 一方で、落書き犯を煽るサウンド系ハウスもあり、その関係者に多額の税金がつぎ込まれ、公的美術館が現役の「犯人」を「アーティスト」と偽って公金で呼び寄せ、落書きをアートと強弁するイベントを開催するという事例もたくさんある。こういう騙しのイベントを仕掛ける自称NPO法人まであって、落書きの知名度アップにいそしんでいる。(落書きをマスコミを使って公然露出させ、なんとか自慢したい、という思考方法がそもそも破綻だが)

子どもより大人が落書きにフィーバーする怪

 バンクシーもその仲間である落書き犯も、所詮、こういう、馬鹿な大人を手玉にとることに限りない快感を覚える「愉快犯人格」だ。かつて、大阪も落書きが蔓延し、府民が炎天下、ものすごい労力をはらって落書き消しをした。その消した地域に落書きしようとしたイギリス人が現行犯逮捕された。彼が仮に「おれはバンクシー」だと名乗れば釈放され、府知事と記念写真をとることができたのだろうか?
 また、数年前、日本の画家が米国の地下鉄に落書きをして逮捕され、きついお灸をすえられた。他方、日本では、今後、有名人が落書きした場合は罪に問われない新しいルールが施行されるのかもしれない。

 だが、問題は、落書き犯本人より、落書きごときに、いい年をした大人が「すわ!アートだ」と盛り上がってしまう悲しい現実だ。しかも、ちょっと政治色をつけるとチンケな落書き犯がここまでもてはやされる。なぜか?

ストレス発散しかできない人々の代償行為

 結論から言えば、社会が「ストレス発散」にしか関心がなくなっているということだ。個別の人間のレベルでいうと、社会への漠然とした不満を募らせるが、自分自身がリスクをとって現場で行動することはしない。受動的なストレス発散タイプが増えているということだ。

 人々が、努力して、自分の使命を自覚し、問題意識を研ぎ澄まして考え行動することから逃避し、宙に浮いた議論にふけって、現場での実践を軽視するようになると、現実は変わらない。だから、どんどんストレスを溜め込み始める。決して口には出さないが、意識下で社会や周囲の環境への復讐的願望を抱きはじめ、その手頃な代償行為として落書き行為を肯定・賛美し始めるのである。ちなみに娘をDVして殺した親も似た心理をもっていると思われる。自分の個人的ストレスを「しつけ」という大義名分的行為に投射して、これを代償行為と感じて解放感を得た瞬間から自分を止められなくなったのだろう。被害者の心情を度外視した議論を始めると、ちょっとした屁理屈でいくらでも犯罪的行為は合理化できる。

落書き犯罪の住民被害者を想像できない軽薄

 被害の実情に意識的に接したことのない想像力の欠如した向きには、落書きは代償行為として手ごろだ。傷害罪や窃盗行為とは違うから、とか、軽犯罪(※1)だから、と内心、自己免罪しているのだろう。だがこんな言い訳も、被害者の顔をみた場合は通用しない。だから落書きを弄ぶ類の人間は、真に傷ついている街や被害者を決して自分から見ようとしない。現場をしらべようとしない。

傍観者が増えて現実は変わらず
 
 と、縷々説明しても、こういう風潮の悲しさはかわらない。ああだこうだと評論しても現実は一歩も変わらないのである。
 むしろ、現場で奮闘、実践する市民をいかに育成するか、というテーマが置き去りにされ、社会的な人材育成が毀損され、社会がよどんでいくことのほうが深刻だ。そこにポピュリズムの政治家が登場し、煽る。一夜にして地方都市の規律までねじまげられる。右へ倣えで、最低限の常識さえ働かせることのできない組織をみていると、条件性さえかわれば、ストレスを他国との戦争で発散させる方向へ誘導することも容易だろうと想像できる。国内矛盾を海外へ向けるお決まりの政治手法の最たるものが、民族排外主義であり、戦争だ。思想性など関係ない。原理原則を忘れ、誘導される対象の一人になることに、警戒が必要だ。

バンクシーの本質は「民衆蔑視」

 バンクシー本人は実はこういう世間の傾向をよく知っているのだろう。覆面性がSNS 時代にマッチしていることも利用している。金持ちオークションでヤンチャをすればマスコミが飛びつくだろうことも。ルサンチマンな大衆心理を自己売名に利用したわけだ。これが功を奏し、"芸術家"といわれ、落書き行為を、ストリート「アート」と強弁して世間に向けて格好をつけたい犯人とそれを面白がる「グラフィティ評論家グループ」から伝道師のように祭り上げられている。もくもくと落書きを消す市民の頭ごなしに、10年一日、こういった心無いキャンペーンが続いている。バンクシーの正体とは何か?それは簡単だ。街に落書きを氾濫させ、大規模なスラム化を進めてその後の重犯罪を増加させる手助けをしておいて、防犯や落書き消しといった尻拭いは住民がすればいい、というご都合主義の思考だ。大衆蔑視の「超」利己主義だ。自分の行為に決して責任を取らず、無責任なアート論を吹聴して己を持ち上げる評論家人種を操縦することに快感を感じている犯罪者特有のゆがんだ心理である。この愚かさは、かつてオウム真理教を礼賛していた評論家諸氏の事例にも通じる。

傍観者ではなく現場で汗を流す喜びを

 しかし、これを批判しているだけでも、何もかわらない。ましてや都知事のように、代償行為を求める一部大衆(まさに政治家が侮蔑的に呼称するところの”大衆”)の意識に迎合すれば(彼女自身がそういうタイプかも)、生み出されるのは、社会への傍観者的姿勢だけだ。

 だが幸いなことに、こういう心無い評論家や政治家、一部メディアがいくら落書きをアートと強弁しても、この十数年間、日本全国で無数の人々が黙々と、落書きを消し続けてきた。これこそが、真に尊い行為だ。

 そのおかげもあって、東京はかつての犯罪都市ニューヨークの再来という事態からぎりぎり免れ、オリンピックを開ける程度の安全性をかろうじて手にしている。自分たちがどういったものに支えられ恩恵を受けてきたかを、はなから知らない都知事と、ごく一部のメディアの不見識には呆れるばかりだ。

落書きを「鑑賞」して溜飲を下げている場合か?

 落書きを消してきた、たくさんの市民の努力をないがしろにするような落書き賛美のキャンペーンは、行動する市民を軽視し、落書きをメジャーにしようと投げ与えられた餌に食いつくだけの軽率な人々の愚を示している。

 いくら心無いキャンペーンがおこなわれても、私たちは、落書きを黙々と消し続ける。それだけが人々の確かな良心を目撃でき、暖かい共感性を感じられる場だから…。加害行為の安易さに比べ、被害修復にはどれだけ莫大な労力と精神力が必要かも体感できる。それを経験すれば、自分のストレスを安易に他者に向けることにためらいが持てる青年、つまり他者の心情を想像できる青年が育つ。地域社会で見えてくる確かなことがある。バンクシーを煽った都知事も記者も、一度ペンキまみれになって、落書きを消しをいちから体験してみるといい。

 ちなみに、フランスではいま、偏狭なナショナリズムか吹き荒れ、匿名性の落書きがそれに一役買っている。シモーヌ・ヴェイユの肖像画の上に、ナチスのカギ十字「ハーケンクロイツ」の落書きがかかれ、ユダヤ人排斥のプロパガンダが勢いを増している。
 「カギ十字派の落書き犯と、そうでない派の落書き犯の落書き対決」などと面白がって鑑賞している場合ではないはずだが…。


【参考】
岡山中心市街地 落書き調査隊
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/rakugakicyousatai-top.htm
落書き問題資料(一部)
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/rakugaki-newsletter.htm


※1 落書き行為はケースによって建造物損壊罪で懲役刑が適用されうる。

【補足】NHKラジオはいろんな意味で勉強になる。
2018年11月に、「世界へ発信!ニュース英語術」でバンクシーのことを取り上げているが、彼のシュレッダー事件を BANKSY PAINTING SELF-DESTRUCTS と紹介した上で、こう書いている。
「世界へ発信!ニュース英語術」
「英語タイトルのBANKSY PAINTING SELF-DESTRUCTSは「バンクシーの絵画、自己破壊する」です。self-destructは…中略…「自己破壊の、自滅の、自爆の」という意味の形容詞として使われることもあります。…中略…今回のニュースを通して、競売関連の語彙を増やしましょう。」 
https://www2.nhk.or.jp/snsenglish/news/n181115.html
「世界へ発信!ニュース英語術」
「解説 "Girl With Balloon"は、今回シュレッダーで細断された作品のタイトルです。この作品は紛争が続くシリアに向けた反戦キャンペーンにも使われたことがあり、バンクシーの最も有名な作品の1つです。」
NHK教育テレビは、以前、「イタリア語講座」で「街にかかれた落書きの意味探しをしましょう」という講座をやって抗議されたことがある。

毎日新聞は2019年2月14日ご丁寧に「作品」紹介の写真特集。
「バンクシー 都内や千葉で…これまでに話題となった作品」
https://mainichi.jp/graphs/20190214/hpj/00m/040/002000g/6

雑誌『AERA dot.』 は
「東京港の防潮扉で見つかったネズミの落書きが、“巨匠”バンクシーの作品にそっくりなことから「贈り物」に。東京近郊には、世界の有名アーティストによる消してはいけない「お宝」が、まだまだある。」
バンクシー騒動で注目のお宝級“落書き” 都内外にまだまだある? 」
本文中で、「消してはいけません」と連呼。
https://dot.asahi.com/aera/2019021400040.html?page=1
なおこの記事は、落書きで商売をしている特殊な関係者からのインタビューと筆者の「主張」のみで構成され、実際の落書き被害の現状や規模と影響、被害者の心情や被害復旧の困難さ、落書き扇動者と薬物取引と公的機関との関係などのいかがわしい裏事情など、本来書くべき事実に関して、すべて知らん顔をしている。